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日産「名車再生クラブ」、2021年度は「R32スカイラインGT-R N1耐久仕様車」をレストア キックオフ式開催

2021年12月12日 開催

キックオフ式は12月12日に行なわれた。左から当時の監督の渡邉衡三氏、ドライバーの加藤博義氏、松本孝夫氏、日本モータースポーツ推進機構理事長の日置和夫氏、日産名車再生クラブ代表の木賀新一氏

社内テストドライバーが耐久シリーズに参戦していた車両を再生。クラブで初めて“R32”を手掛ける

 日産自動車の社内クラブ「日産名車再生クラブ」は2021年度の活動としてレストアする車両を「R32スカイラインGT-R N1耐久仕様車」とするとし、12月12日にキックオフ式を神奈川県厚木市の日産テクニカルセンターで行なった。日産名車再生クラブの活動は2006年から行なっているが、R32スカイラインを手掛けるのは今回が初。今年度のクラブ員も多数集まりたいへんな盛り上がりを見せている。

 レストアされる「R32スカイラインGT-R N1耐久仕様車」は1990年に社内テストドライバーのさらなる評価能力向上を目的にN1耐久レースに参戦するため、栃木実験部のメンバーが製作したクルマ。シャシーナンバーはR32スカイラインGT-R NISMO ホモロゲーションモデルの最終号車であることを表す「BNR32-100560」。1990年から1993年まで参戦中は1台のクルマで通した。

R32スカイラインGT-R N1耐久仕様車

 2021年度をこのクルマに決めた理由は3つあり、BNR32のポテンシャルを学ぶ、実験部のメンバーが手作りで製作した工夫点やノウハウを学ぶ、開発実験ドライバーの育成として位置付けた企画背景や活動実態を学ぶことになる。

 クラブの活動計画では、まず車両分解から始まり、エンジン、トランスミッション、サスペンション、アクスル、ブレーキ、ボディの修復を同時進行して2022年のゴールデンウィークまでに終わらせ、その後、エンジンとトランスミッション、内外装を仕上げ、チェック走行や調整を終えて6月下旬には完成となる。

 クラブの活動は時間外に行ない、会社休日を利用して実施する。コアメンバー12名のほか、毎年クラブメンバーは社内募集するが、今回はスカイラインということでメンバーが多く集まり、現時点で99名と過去平均80名よりも多い人数が集まっている。

日産名車再生クラブ代表の木賀新一氏

 日産名車再生クラブ代表の木賀新一氏はキックオフ式のあいさつのなかで、「これまでもスカイラインを手掛けているが、R32はやっていなくて、クラブ員でもR32に乗っている方はたくさんいて、ぜひやってみたいという話はしていた。クラブ員が相当熱を入れて、自分のクルマを直すがごとく、この部品が使えるのか、どういう調達ルートがあるとか、調べてくれるのではないかと非常に楽しみしております」とクラブの盛り上がりを説明した。

 クルマの状態については「きれいだが、よく見るとどこかに乗り上げたみたいな跡もあるし、たぶん全部バラすことになるので、この傷は何なのかなどをお伺いしたい」と、当時の様子を踏まえ、当時のドライバーなどから話を聞きながら作業を行なうこととした。

日産名車再生クラブの概要。2006年に発足、勤務時間外に活動、コアメンバー以外のクラブメンバーは毎年募集する
これまでの再生車両。1年1車両以上を維持、2020年は新型コロナウイルスの影響もあって、身近でクラブ員が乗って楽しめるレベルの車両であるマーチスーパーターボを選定していた。そして、今回までスカイラインはあってもR32はなし
2021年度の再生車両はクラブ始まって以来、初めてとなるR32スカイラインとなる

 また、最近の日産は伊藤かずえさんのシーマのレストアが話題になっているが、「日産名車再生クラブ」はあくまで社内クラブ活動。ただし、一部メンバーが業務としてシーマのレストアにも関わってるほか、ノウハウを蓄積しているクラブ員に問い合わせもあったという。

活動計画
タイムスケジュール
クラブ体制

 キックオフ式を迎えて、登壇した日本モータースポーツ推進機構理事長の日置和夫氏からは、「2006年に立ち上げて、メーカのなかでレストアして後世に残す取り組みは注目されていて、われわれが始めたあとに、他社も社内でレストアをするようになった。そういう意味で、リーダー的位置付けになる」と活動を評価、現在の社長である内田誠氏からも活動を評価されているという話があることを紹介した。

日本モータースポーツ推進機構理事長の日置和夫氏

 また、当時について「渡邉監督以下、怪我なく、若干ひやひやしながら見てたこともありました。成績はあまり残しておりませんが、走りきって、皆さんの技量アップにつながった」と振り返った。

絶対にクルマを壊せないというテストドライバーの習性からスタートが遅れる

 また、来賓として当時の監督だった渡邉衡三氏が登壇。当時、このクルマでレースをするに至った点が説明された。当時の日産の901運動を必達するために世界の道を知るドライバーを育てる必要があり、R32スカイラインは901運動の成果を日本向けに織り込んだクルマ。しかし、渡辺氏はより高いレベルを目指せば、上には上がいて、R32だけで終わってしまう活動ではないと思ったという。

当時、監督であった日産アーカイブスの渡邉衡三氏

 そこで、評価ドライバーの重要性を認識。R32のあとも、さらなる走りの性能のナンバーワンを極めていくためには、ドライバーにもさらなる高みを目指してもらいたいと考え、レース活動を思い立ったという。

 もう1つの理由としては、テストコースには安全を確保するため厳しい走行規則があるが、もう少しのびのびと走れる場を提供したいと思い、「社内では無理ならサーキットならいいのではないか」と考えたこと。

 当時、日産の社員の活性化という活動があり、申請をして許可が出ると10万円ほどのお金が出る制度があった。そこで「N1レースならなんとか手が届くんじゃないかと、申請をして了解をもらった。クルマは“売る”ほどありますから、クルマ作りはできるだろう」と話し、それでも10万円では費用が足りないため、日産プリンス栃木にスポンサーの協力を依頼した記憶もあるとしている。

 参戦時のエピソードとしては、初戦でスタートが大きく遅れて絶句したことを紹介すると「混走して出ていくなんて、試験車を絶対に壊してはいけないことが骨身にしみているのでしょう。さすが日産で鍛えられた人はすごいなと思った」と説明。テストドライバーの“性”を語った。

 肝心のドライバー育成の成果については、「たぶん、育成の効果はあったんじゃないかと思うが、このクルマを作ることで、R33スカイラインの開発に役立ったと聞いたことがある」と述べた。

3年間1台のクルマで参戦、エンジンも2年目にブローするまでOHなし

 続いて、当時このクルマのドライバーで「現代の名工」と呼ばれる加藤博義氏が登壇した。冒頭で「ドライバーの育成なんて高尚なことを言ってますが、あれ嘘です。(渡辺氏が当時注目されていた櫻井眞一郎氏のように)サーキットでヘッドセットを付けて、“ヒロヨシ、GO!”とやりたかっただけ」と冗談交じりで答えて笑いを誘ったほか、このクルマのシャシー番号が最終番号であっとことも当時は全く気にせず、「たまたまクルマちょうだい。と言ってもらってきたのが、これだった」とのエピソードも紹介された。

ドライバーで「現代の名工」加藤博義氏

 加藤氏は初戦当時を振り返り、「われわれ素人が行って土屋圭市さん、松田秀士さん、中谷明彦さん、清水和夫さんや、グループAも乗ってるようなドライバーが出てきているなかで、予選を通ることがあとから考えると奇跡だった」と答えるも、1990年当時に渡辺氏からは「今年R32が出てくるのに、世の中で一番乗ってるのは俺ら、われわれより乗ってる人間はいないだろう」と開発ドライバーの有利さを言われたことも紹介された。

 初戦は完走。しかし、R32が登場して年月がたつと、他のドライバーも乗り慣れてきて日産のチームも予選を通ることが難しくなり、それでレース活動を終えたことも明らかした。

 また、2年目の1991年に初めてエンジンブローでリタイアするが、それまでエンジンのオーバーホールもしていなかったことが明らかにされ、また、車体は1台で通し、1992年の参戦最後の年にエンジンブローで終わってからエンジンを積み替えた記憶がないことからも、レストアするクルマのエンジンの状態が分からないとした。

 なお、R32スカイラインのレース活動を通じて得た知見がR33スカイラインに活かされているかという点については「R32の素のクルマを知っているわれわれが、ロールバーを組んでもらうとこんなに剛性が上がるのか」と実感し、R33の開発が始まった際に乗るとすぐ弱い点が分かるようになったという。R33のボディには「“棒”とか“板”とかが入ってるんですけど、あれはまさにこのクルマで得たことで、市販車では工場で組めるようにした」と明らかにした。

当時の関係者は今でも仲良く思い出を振り返る

第三世代のGT-Rにつながるクルマが動態保存されるところには思い入れがある

 続いてドライバーだった松本孝夫氏も登壇。松本氏は初戦でスタートが遅れた件について、ドライバーは自分だったと明かした上で理由を説明した。当時、ル・マン式に似たスタートが採用されており、2番目のドライバーがキーを持って走り、クルマに乗った1番目のドライバーに渡してエンジンをかけてスタートする方法を採用していた。

ドライバーの松本孝夫氏

 松本氏はクルマを壊さないように走行したことがあるとしながらも、両隣のクルマのエンジンが早くかかっていた点を解説、ノウハウや戦い方が他のクルマに及ばなかったと振り返ったほか、初戦の思い出としては、当時はクールスーツを着用せず、給油までの連続走行が100ラップ以上になることから、昼間のつくばサーキットを夏に走ることが大変であることを実感したことが語られた。

 松本氏は「1989年の開発の終わりごろ、初めて海外出張に行ってニュルを走ったクルマがR32のGT-R。私の日産の歴史のなかでもかなり転機になったクルマ」と思い入れを語るとともに、R34と現在のR35 GT-Rの開発に関わったことから今回のレストアについて「第三世代のGT-Rにつながるクルマが動態保存されるところには思い入れがあるし、日産自動車としても動態保存されるのは非常にありがたい」と述べた。

完成は6月、展示披露は社会情勢を見て実施

 今回のキックオフ式を経て、再生作業がスタートする「R32スカイラインGT-R N1耐久仕様車」。レストア完了は2022年の6月を予定するが、完成式のイベントはそのときの状況を鑑みて実施を判断するとしている。なお、2020年はマーチスーパーターボをレストアしたが、大々的に発表やクルマの披露はしていない。

R32スカイラインGT-R N1耐久仕様車
エンジンは当時、ブローしたままというドライバーの記憶もあるが、現在の状態は分解してみないと分からないという
シリアル番号は「BNR32-100560」
今では貴重だというプロジェクターではないN1仕様のヘッドライト
室内はロールケージが設置されている
R32スカイラインはパワーウィンドウが標準装備だが手動式に改造してある
室内にはロールケージが張り巡らせられる
コクピットの通常ならラジオ操作に相当するサテライトスイッチがFRと4WDの切り替えスイッチに改造してあったという
リアウィンドウなどはアクリルで作られたものに手作業で交換してある。レストアではきれいに作り直す予定だが、当時の作業の風合いを歴史として残すのはどうかというリクエストもある
フェンダーの凹みも当時のままだが、これはレストアで補修される予定
シート
会社からの活動費が少ないなかでスポンサーとして日産プリンス栃木などがサポートしてくれたという
当時のドライバー
トランクにはガソリンタンクがある。クイックチャージャーは小柄な人では注入口のばねで押し返されてしまって注入ができなかったため、社内で長身で体重のある人をチームにスカウトしてレースに帯同させたという
日産名車再生クラブで最初に手掛けた240RS