ニュース
【第15話】ありがとう号
2023年9月8日 00:00
2021年シーズンのF1は、最後にだれもが予想もしなかったエンディングで幕を閉じることになるわけだが、いま振り返ると、そこにいたるまでにはいくつもの奇跡が折り重なっていたという事実に驚かされることがある。
それらの奇跡のうちの1つが、2021年のトルコGPで実施されたレッドブルの「特別カラーリング」をはじめとした、さまざまな企画だった。
もともと、このアイディアはホンダF1の最後の母国グランプリとなる鈴鹿で、レッドブルのドライバーがホンダへの感謝の意味を込めて特別なカラーリングのレーシングスーツを着るというものだった。
レッドブルがホンダと組んだ2019年のシーズン終了後に、ホンダはマックス・フェルスタッペン選手を本田技術研究所に招待し、そのテストコースで佐藤琢磨選手とともに往年のホンダF1マシンである「RA272」を走らせるというイベントを行なった。そのとき琢磨選手はホンダが用意した白いレーシングスーツを着たのだが、それを見たフェルスタッペンが「これカッコイイじゃないか!」と気に入り、次の日本GPで着ようとアイディアを温めていたが、2020年は新型コロナで日本GPは中止となった。そこで「2021年こそ」とレッドブル陣営は、ホンダのデザインをモチーフにした白を基調とした特別なレーシングスーツの準備を進めていたが、日本GPは再び中止。ホンダはその年限りでF1参戦を終了すると発表していたため、そのアイディアはお蔵入りとなるはずだった。
ところが、日本GPが中止になったことで、その前後のグランプリ開催スケジュールが見直されることとなった。
日本GPが中止になる以前は、6月25日に2021年の開催を断念していたシンガポールGPに代わって、トルコGPが10月1日~3日に行なわれ、その翌週の10月8日~10日に日本GPが開催される予定となっていた。しかし、8月18日に日本GPの中止が正式に決まったため、ロシアGPから2週連続で開催されることになっていたトルコGPを、1週間後ろ倒しとする新たなスケジュールを8月28日にF1側が発表した。
この発表を受けて、ざわついたのがレッドブルとホンダの関係者だった。なぜなら、1週間後ろ倒しとなったトルコGPの開催日は当初、日本GPが開催される10月8日~10日となったからだ。ホンダは、このトルコGPを日本GPの代替えレースと位置付け、日本GPを楽しみにしていたファンに向けて、さまざまなファン参加型オンラインイベントを企画した。
グランプリ開幕前日の10月7日には「Red Bull Racing Honda Special Call Live Event」として、フェルスタッペン選手とセルジオ・ペレス選手のレッドブルドライバー2人との公開オンラインライブセッションを行ない、日本のファンへ2人からメッセージが贈られた。また事前募集・抽選形式で選ばれた限定5名は直接オンラインで2人のドライバーに質問をする企画もあった。グランプリ前日のドライバーは、翌日からのセッションに向けて、エンジニアとのミーティングやさまざまな記者会見があって結構忙しい。そんな中でこのようなイベントに参加したのは、2人のドライバーとレッドブルがホンダをリスペクトし、日本のファンを大切にしているからだった。
さらにホンダの現場スタッフは、金曜日から3日間、白を基調にした、右肩に「ありがとう」の文字が入った特別シャツに身を包んで、レースを戦っていた。
レッドブルにとっても、1週間の後ろ倒しは自分たちの企画を実現させる絶好のチャンスとなった。スケジュールが変更されたことで、レッドブル側は白を基調とした特別なレーシングスーツをトルコGPで復活させるだけでなく、マシンも白を基調にした特別カラーリングに変更したいという提案をホンダに行なった。
というのも、この企画はデモラン用のマシンを白くするという単純なものではなく、実際にレースを走らせる2台しかないマシンのカラーリングを変えるため、時間を要した。カラーリング変更はファクトリーにマシンを一旦戻さないとできない。日本GPが中止になる前、トルコGPはロシアGPと2週連続開催となっていた。F1マシンなどの機材は、ロシアGPの後、直接トルコGPが行なわれるイスタンブールへF1側が特別に用意したチャーター便で空輸されるため、カラーリングの変更は不可能だった。
しかし、1週間後ろ倒しになったため、レッドブルは他のチームとは別に自分たちでチャーター便を用意して、ロシアからイギリス、そしてイギリスからトルコへとパーツを空輸して、特別カラーリングを実現させた。
ただし、当時ホンダF1のマネージングディレクターを務めていた山本雅史氏は「単純に上塗りしたのではマシンが重くなる」と難色を示していた。そこで、レッドブルは、特殊な技術で加工したフィルムを表面に貼ることで、塗料による塗装よりも軽量化を実現させるだけでなく、カラーリング変更にかかる時間を大幅に短縮できる方法を発案。
そのアイディアをレッドブルのファクトリーを訪れたときにレッドブルのクリスチャン・ホーナー代表から聞かされた山本氏は「さすがはレッドブル」と改めて、レッドブルというチームの素晴らしさに感嘆したという。
その特別にカラーリングされたパーツは、バラバラの状態でイスタンブールに到着。サーキットで待っていたメカニックたちによってガレージで組み上がったのは本番2日前の10月6日の夜だった。レッドブルが自らのコーポレートカラーを変更してまで真っ白な特別カラーリングにしたのは、心の底からホンダへの感謝の意を贈りたかったからだが、実はレッドブルの中にこのプロジェクトの成功に尽力していた日本人スタッフがいたことも大きく関係していた。それは、江川愛菜(あきな)さんというパワーユニット・パートナーシップ・マネージャーだ。彼女がホンダとしっかりコミュケーションをとってくれたおかげで、このプロジェクトは大きく前進した。
ただし、レッドブルはホーナー代表とヘルムート・マルコ氏(モータースポーツアドバイザー)しか、原則メディアの取材に応じないため、江川さんを取材できなかった。そこで山本さんに「山本さんが江川さんに感謝するという形で、江川さんの貢献があったことを単行本に加えたい」とお願いした。それが第9章の以下の部分だ。
「この企画やイベントを成功させるために尽力していただいたクリスチャン(・ホーナー代表)をはじめレッドブルのファクトリーの皆さんに本当に感謝してます。特にレッドブルでPUパートナーシップ・マネージャーとしてホンダとしっかりとコミュケーションをとって仕事してくれた江川愛菜さんには感謝しています」
また、当時はそういった事情がすべてトルコGPの週末に明かされなかったため、トルコGPではホンダがパワーユニットを供給するもう1チームのアルファタウリのマシンが「ありがとう」の文字が入ったリアウイングだけの仕様にとどまったことに疑問の声もあがっていたが、アルファタウリにやる気がなかったわけではなく、あれは10チーム中、レッドブルしかできなかったアイディアと行動力と技術だったということを付け加えておきたい。
あの日イスタンブールで走った2台の特別カラーリングと、「ありがとう」の文字が入ったリアウイングをまとった4台のマシンは、本当に輝いていたし、力強い走りを披露してくれた。日本GPが中止になったことは残念だったが、2021年10月10日が多くの人々に忘れることができない記念日となったに違いない。