インタビュー

熱田護の辰己英治STI総監督インタビュー 2024年で最後のニュル24時間に向けて心境を聞いた

辰己英治STI総監督(左)

 毎年ドイツ・ニュルブルクリンクで開催される「ニュルブルクリンク24時間レース」に参戦しているSTI(スバルテクニカインターナショナル)。2008年からニュル24時間レースに参戦している辰己英治氏は、2024年を最後に総監督からの退任が発表されています。

 飾らず、威張らず、目標に向かってまっすぐに物事を進めていく、その過程には、いろいろ問題も起こりますし、それを解決に向けて大きなプロジェクトを正しい方向に導くのは正しいリーダーの存在が必要不可欠です。17年間、スバルSTIチームの牽引役として仕事をしてきた辰己さんはまさにスバルにおけるモータースポーツの顔としての存在でした。その辰己総監督に、雑談も含めてたくさんお話を聞かせていただきました。

WRX NBR CHALLENGE 2024

STIとして欠かせないモータースポーツ。技術をつなぐためにニュル24時間に参戦

熱田:ニュルブルクリンク24時間レースに参戦したのは何年からですか?

辰己総監督:参戦し始めたのは2008年からです。そもそも、その参戦以前はモータースポーツを仕事としてやりたいとはつゆほども考えたことはなかったんです。

 55歳でスバルの定年を迎えてSTIに来たのもモータースポーツをやりたかったわけではなくて、2006年10月当時社長の桂田さんに話をして転籍となり、スバル時代に新型車の開発作業の中で先行開発として面白いクルマ作りができないかと、走りの基本となる車体作りを先陣を切って始めていたのをSTIで継続してやりたいという希望で、実際にはフレキシブルタワーバーとかドロースティフナーなどの製品はスバル時代の仕事の延長で生まれたものなんです。STIのコンプリートカーのS402やS206にはそれまでの経験や知見をふんだんに活かせるなと思って仕事に打ち込んでいたわけです。

 そのとき、WRC(FIA世界ラリー選手権)とSUPER GTをやっていたんです。しかし、実際にはWRCはイギリスのプロドライブがやっていて、SUPER GTはクスコへのエンジン供給がSTIメインの関わりで、車体、シャシの技術的関わりはかなり限られていました。

 その状況の中、2008年末にWRCから撤退という話が出るんです。そのとき考えたのは、STIはどういう会社なのかということ。WRCという世界選手権に参戦しているというイメージは大きく、STIという会社のブランドイメージと合致していたのは事実としてあるわけで、そこでコンプリートカーを作って売るという会社であるわけです。

 しかし多額の予算投下でWRCで勝てない状況下で止めるという決断は致し方ないとも感じていました。そこでSTIとして次は何をやるのだろう? ともすると社内ではモータースポーツはやらないという雰囲気にもなっていたんです。いやいや、モータースポーツがないSTIはないでしょ! ということで、会社にニュルブルクリンクでレースをしましょうと提案しました。

 その理由は、スバルにいたときに新技術の確認・実験で年に7~8回は日本から通っていました。ニュルを走ることで得られるデータは、即座にクルマが鍛えられることを意味しましたし、さらにクルマ作りのヒントを得られることを知っていたし、スバルテクニカインターナショナルというという会社がこれまでモータースポーツを通じて築いてきたイメージを存続させるために強くレースをやることを提案し、紆余曲折、すったもんだ、怒鳴り合い、いろいろありましたが会社として承認されて、急遽STI独自の活動として参戦が実現しました。

 でもその年は、準備期間も極端に少なく、ほとんどノーマルカーのまま、たいした走りもできないようなクルマを作ったわけなんですが、それを継続していって2011年にそれまでのハッチバックベースからセダンで参戦し、S206をベースにしたクルマで初優勝を遂げました。思い出のクルマですね……。

 その当時も予算がなくて、見た目もほとんどノーマル、当然フェンダーもノーマルで車高を落としているだけなので、タイヤがフェンダーに潜っているような状態のクルマでしたね。車体設計をやっている人に予算が400万円しかないんだけどカーボンのボディパーツをどこまで作れるかという無理難題をお願いしながら車体作ってましたね。そんな状態ですからエンジンも340馬力も出てないくらいでした。

 でも、そのクルマが完成度高く、トラブルも全くなく143ラップ走って優勝してSTIのクルマ作りのコンセプトの自信にもなりました。

 でも、この記録をその後なかなか越えられなかったんです。2012年は優勝、2013年、2014年は勝てず2015年にまた優勝したんですが、周回数が143ラップなんですね。もちろんマシンは毎年進化しているんですが周回数というのはそう簡単に更新できないものなんだというのがそのとき分かりました。

 超えたのが2019年で、やっと145ラップで優勝できたんです。やっぱり、レースカーの基本は壊れないというのが基本なんですよね。いくら速いクルマを作ったって30分止まってしまっては挽回できませんからね。ニュルを走って、STIの技術を証明したいという一心で挑戦してきたという感じです。

 ではその技術は何かというと、今までのチューニングカーとか量産車の技術とは違うさまざまな細かい技術が入っているんです。例えばレーシングカーなのにゴムブッシュを積極的に採用しているんです。そんなクルマが速く走り、できれば勝つことで証明になることが目標になり、モチベーションになり、喜びにもつながりました。

「もう1年だけやってほしい」という願いから、2024年を最後の参戦に

熱田:2008年から2024年までの17年の間に参戦への気持ちの変化はありましたか?

辰己総監督:それはないですね。

熱田:では、その間にマシンはアップデートしていったわけですが、そのやりたい技術の投入はやり切った感じですか?

辰己総監督:いや、多分まだまだあるんでしょうね。

 ただ、いま分かっていることはほぼやってますし、毎年新しい技術を入れるということはやってきました。

 例えば「WRX S4 STI Sport♯」に入れたホイールは2024年ニュル参戦車両と同じ考えで開発したホイールを採用しています。それは、ニュルブルクリンク24時間レースをSTIが続けている意味でもあるんです。

熱田:辰己さんは2024年のニュルのレースを最後に引退することが発表になりました。2024年を選んだ理由を教えてください。

辰己総監督:これはね、引き際の美学じゃないけど、どこかでスパッと辞めないといかんな……とずっと思っていました。

 総監督として表に出るのにヨレヨレになった姿を見せるのは惨めだと思っているんですね。実は2023年で辞めようと思っていたんですよ。でもね、クルマを壊して失敗したじゃないですか。帰国してすぐに、平岡社長が群馬までいらっしゃって「辰己さん、このままじゃ終われないのでもう1年だけやってもらえないだろうか」とわざわざ話に来てくれたんです。2024年で最後だと発表してもいいからやってほしいと言われて、それならやりますという流れなんですね。

 そこから、BBSホイールさんにお願いして開発をし、佐々木選手、久保選手に国内のサーキットでテストしてもらっていい結果が出たので採用となりました。

 さらにエンジンも10馬力以上上がりつつ燃費も向上しているという今年のマシンのスペックとなっています……というように、外に向かって発信できることがないと出る意味もないですから。でもその改良は大変な仕事量が必要なんです。エンジンのパワーアップにしても、2023年に壊れたサスペンション、そしてフジツボさんに作ってもらったエキゾーストも、STIの技術者とフジツボの技術者の切磋琢磨した議論の戦いの末に大変苦労してやっとできあがった部品なんです。

熱田:さて、あとは本番の24時間レースを迎えるわけですが、ご自身の引退も含め今どんな心境ですか?

辰己総監督:未練はないですね。新しい技術を生み出したいという気持ちは今もありますが、キリがないのでね。辞めるということに対する寂しさもないですね。

熱田:では辞めたあとのことは考えてますか?

辰己総監督:いや、それは僕の器用ではない性格上、辞めたあとでしか考えられないです。まずはのんびりしてみて、庭いじりとかバイクに乗るとかですかね。これは暇でどうしようもないと思ったら、何か考えると思います。

熱田:でも、これは暇すぎてだめだ! ってどう考えてもなるように思うんですが?

辰己総監督:なりますね! きっと!(笑)

 でも73歳にもなって、何かをどうしてもやらなくてはという感じでもなさそうな気もしませんか!

チームスタッフが語る辰己総監督の姿

 辰己総監督と一緒にニュル24時間レースに参戦しているチームのスタッフ5名に、辰己総監督との一番の思い出を聞きました。

渋谷直樹さん

 2009年から辰己総監督と一緒に仕事をしている渋谷直樹さん(技術監督)。「自分は宮城県沿岸部の出身で、2011年3月11日に群馬にあるSTIの整備室でドイツに送る荷物の整理をやっているときに大地震があって、実家がある宮城のことを心配していたところ、そのときたまたまレース車から抜いたガソリンがあり、これを使って帰れと言ってくれた辰己さんの優しさに感謝しています。物作りに関しての引き出しの多さに驚き、いつも新しいことにチャレンジする姿勢を勉強させていただいています」。

藤岡眞史さん

 2021年4月から一緒に仕事をしている藤岡眞史さん。「怒られたことが1回だけあって……。NBRに関わらせてもらって1年たったくらいのころ、整備室でニュルのクルマのタイヤの組み替えをしていたときの話です。作業を終えたときに辰己さんが来て、タイヤチェンジャーのまわりに工具などが散らばっていて、『汚い! 整理整頓ができないヤツは、いいクルマ作りも仕事もできるわけないだろ!』と言われ、本当にその通りだなと思い、心に刺さりました、それ以降、整理整頓を1番に考えています。最後のレースに向けて、辰己さんの一挙手一投足を盗めるところは全部盗みたいと思います。そして来年から大丈夫そうだなと思ってもらえるような働きを見せたいと思っています」。

宮沢竜太さん

 2018年から一緒の宮沢竜太さん。「2018年のレースで緊急ピットインが5~6回するという結構ズタボロのレースをしたあとの、2019年の完璧なレースをして優勝したときですね。24時間経ってトップのクルマがゴールをしていないのでもう1周となり、ピット内のモニターを食い入るように見つつ、無事にゴールできたときに辰己さんと『お疲れさま』という言葉とときに握手できた瞬間が一番の思い出です。あのときのうれしさは過去1番です! 自分の仕事としても完璧だなと思えるレースでした。今年はその2019年を超える完璧なレースをするように準備しています」。

篠崎久美子さん

 2008年から特装車の仕事をし、ニュルには2012年から一緒の篠崎久美子さん。「辰己さんって隠しごとなしで、いつもオープンなんです。飾らない上司なんです。だから誰に対しても同じ目線で話をしてくれるので、みんなに慕われる上司ナンバーワンなんじゃないかと思います。2011年に初めてクラス優勝をしたのですが、その翌年の2012年も優勝して2連覇を達成したゴールの瞬間、サングラスの奥に涙を見たんです。本人は泣いてないと言いますが、きっとクルマ作りとチーム作りの成果が出て安堵と達成感で出た涙だったのだろうと思います。ですので、今年の辰己さんのラストイヤーの24時間レースは、泣きながら笑顔でチェッカーを受けられるようにすることが目標です」。

沢田拓也さん

 沢田拓也さん。「辰己さんとは2008年から一緒に仕事を始めました。レースや市販車の開発などの仕事でずっと一緒にいるのでたくさんの思い出があります、怒られたことは数知れず、褒められたことも何度かあります。その中でもやっぱり2011年と2019年の優勝のときが一番印象に残っているのですが、何か1つというと……エピソードがありすぎて1つを挙げるのは難しいですね……。そういう意味では、今年の24時間レースで最高のレースをして辰己さんに恩返しできればと強く思います」。