ホンダ撤退と、F1の未来

 

 先週、12月5日に本田技研工業は緊急会見を本社で開き、そこでF1からの撤退を正式に表明した。その内容は、関連記事をご覧いただきたい。

 この発表の直前、筆者はアメリカで行なわれていたSAE(Society of Automotive Engineers)によるMSEC(モータースポーツ技術学会)に出席していた。そこにはFIA、IRL、NASCAR、NHRA、SCCA、IMSAなど欧米のレース統括団体や、チーム関係者、関連企業、関連研究機関などが集まり、それぞれの分野ごとにさまざまな研究発表がされていた(このMSECの内容はまた後日ご報告したい)。最終日の日程が終わったところで、ホンダがF1から撤退するらしいという第一報がイギリスから届き、出席者には衝撃が走った。

参戦コスト削減はすべてのモータースポーツの問題
 MSECは1994年に始まり、2004年からは環境対策技術と参戦コスト削減が中心議題に加わっていた。そして2004年の段階ですでにIRL、NASCAR、NHRA、SCCA、IMSAなどは参戦コスト削減策を実現し、これがより多くの接戦を生み出し、結果として観客動員数とテレビの視聴者数の増加につながったという発表をしていた。

 この2004年の発表は、各競技統括団体の代表者によるパネルディスカッションで行なわれ、出席したFIAのマックス・モズレー会長は、「F1をはじめとしたFIAの競技もコスト削減が急務」としながらも、当時のF1が北米のレース界に大きく遅れをとっていたことを率直に認めた。

 すると、IRLのトニー・ジョージ会長らを中心に「マックス、安全のときのようにまたノウハウを提供しあおう」という声がかかった。安全向上技術は、1994年以来MSECでの大きな柱であり、ここでFIAはIRLなど北米のモータースポーツ界の安全研究との関係を深め、ヨーロッパと北米と大西洋の両岸で、技術情報のやり取りが始まった。とくにF1とIRL(インディカー)は、インディカーの事故データからF1のより安全なモノコック基準ができ、この基準を元にインディカーのモノコック規定も決め、互いの研究成果を交換することで、安全性を向上してきた。

 ジョージ会長は、この事例のように、コスト削減もまた、IRLでの成果をFIAに提供すると申し出たのだった。結果、2005年以降、FIAが打ち出してきたF1へのコスト削減のルールや提案は、インディカーやNASCARやNHRAから多くを学んだものだった。

 エンジンの2イベント継続使用によるコスト削減は、NHRAの考えを強く受けていた。エンジンの材質や寸法に対する規制は、IRL、NASCAR、NHRAで行なっているもの。エンジンマウントの位置を全メーカー共通とする考えもIRLと同様で、これはエンジンメーカーが撤退したり、供給メーカーが変わったりしても、チームは別のエンジンをすぐに搭載でき、車体側の改造やシャシーの新造といったコスト負担を少なくさせる考えだ。

 この考えは、NASCARにも明確に現れている。NASCARのトップクラスであるスプリントカップやその下のネイションワイドシリーズでは、アメリカの3メーカーとトヨタが参戦しているが、実際はメーカーの名前を背負ったプライベートチームが参戦している。そして、もしもチームがほかのメーカーへ契約を移行しても、あるいはメーカーが撤退しても、チーム側の負担が最小限となる仕組みがルールに組み込まれていた。

 それは、エンジンと車体の外観(外板)だけがメーカーごとに異なるだけで、ギヤボックス、ディファレンシャル、サスペンション、シャシーフレームといった大部分を全車共通化するというもの。これで、チームは契約メーカーが変わっても、エンジンと車体の外板を変更すれば既存の車体を利用できる。

 この考えはさらに加速され、今年からスプリントカップにフル投入されたCOT(Car Of Tomorrow)車では、ボディも基本的には同じ形とし、メーカーごとの違いはフロントグリルやライトなど特徴的な部分を、できる限り塗装で変えるだけにしている。こうなると、メーカーが変わってもチームはエンジンが変わる程度でしかない。しかも、車体がほぼ共通になったことで、より接戦になり、より面白いレースになった。

ワンメイク志向だったF1
 歴史を振り返ると、F1もそもそもはNASCARやIRLに近い思想で生まれたものだった。第2次大戦直後の1947年にFIAは、第2次大戦前のグランプリレースを引き継ぐレースを、戦前のヨーロッパ選手権から世界選手権へと格上げする最高峰のシリーズとして構想した。そしてこれを、ドライバーの操縦技量を競う世界ドライバーズ選手権とした。

 そこで使う競技車輌をF1(フォーミュラ1)とし、それは寸法などをレギュレーションで規制し、できるかぎり均質な性能の車輌としようと努めた。これで、現代の全車共通のワンメイクフォーミュラのようにドライバーの力量差がより出やすくしようとしたのだった。

 ただ、当時のFIAの財力やヨーロッパの経済産業界と、レース界の事情では、ワンメイク化などは不可能だったため、規定の範囲内で独自に車輌を作らせるようにしていた。これが現代へ続くF1の原点だ。現代でもF1はドライバーズチャンピオンシップのほうがより重視されるのは、こうした歴史的背景による。

 一方、自動車メーカーがその技術力を競う場には世界メイクス選手権が設けられ、それはスポーツカーやスポーツプロトタイプカーで行われていた。そのため、1950~60年代には、ル・マン24時間などスポーツカーレースのほうが、技術的にはF1を凌駕していた時期があった。だが、スポーツカーレースは衰退し、F1は1970年代に繁栄と急成長を迎えた。

 1960年代の終わり、先進国では排気ガス対策が急務となり、自動車メーカーはその対応に追われた。さらに1970年代初頭に石油ショックが起こり、効率のよい自動車の開発も求められた。そこで、自動車メーカーはレースから撤退していった。メイクス選手権はこの影響を大きく受け、存亡の危機に陥った。

 一方F1は、フォード・コスワースDFVという比較的高性能なエンジンを(F1用エンジンとしては)手軽に買うことができ、ヒューランドがギヤボックスを量産供給したことで、車体を製作すれば参戦できる状況を迎えた。つまり、共通のパワートレーンがリーズナブルな値段で供給されたことで、自動車メーカーが抜けてもプライベートチームは存続でき、参戦チームと台数が増えるようになった。そして、チーム間で車体の技術を競うようになり、現代のF1のテクノロジーの基礎が1970年代後半から1980年代前半に築かれた。共通パワートレーンになったことで、F1は繁栄したのだった。

 この当時、イギリスのマーチというレーシングカーメーカーは、量産F1マシン、今風に言えば「カスタマーカー」を販売していた。当時のF1規定では、市販のマシンを買っても参戦できた。これもF1に参戦台数を増やす結果となったし、今年のトロロッソがイタリアGPで優勝した以上に、1970年代前半のF1では、状況によっては市販のシャシーでも勝てるチャンスがあった。

自動車メーカーのモータースポーツへの姿勢は不安定
 このマーチの役員として、営業面とレースチームを統括していたのが、マックス・モズレー現FIA会長だった。当時のモズレー氏は、F1チームの団体であるF1CA(現在のF1の商業面を統括するフォーミュラワングループの前身団体だが、当時の機能は参戦チームの利益を代表するもので、現在のFOTAのようなもの)の事務局長でもあった。

 モズレー会長は、その経験からプライベートチームの立場を理解し、パワートレーンを共通化しても、コスト削減と競技の面白さの両立になることも知っていた。しかも、現在のFIAには、元ロータスのテクニカルディレクターで現在のF1マシンの空力技術や世界中の電子制御サスペンション技術の元を築いたピーター・ライトや、元PIリサーチやジャガーF1の代表で、エレクトロニクス技術にも明るいトニー・パーネルら専門の技術者を集めたシンクタンクがあり、そこで科学的な考察や検証を元にレギュレーション案が練られている。モズレー会長はこうした結果を踏まえて、チーム側や自動車メーカーにさまざまな提案をしている。決して一時の思い付きや、過去の経験だけによる案だけではないのだ。

 モズレー会長は、1980年代にFISA(現FIAモータースポーツ部門)のマニュファクチャラー委員長を務め、そこで自動車メーカーの参戦でスポーツカーレースの競争が激化し、一時の繁栄の後、コスト高に耐えられなくなったメーカーが撤退、シリーズの衰退につながったのを目の当たりにしてきた。会長職についてからも、1996年にITC(国際ツーリングカー選手権)がハイテク競争の末のコスト高で参戦メーカーの連鎖撤退とシリーズ消滅を経験。皮肉にも、こうしたスポーツカーやITCの衰退がF1への自動車メーカー参戦を加速し、F1が活性化し、肥大化する要因になった。「自動車メーカーのモータースポーツへの姿勢は不安定」という、モズレー会長の懐疑的な姿勢は一貫し、ホンダのF1撤退はその姿勢が正しかったことを証明してしまった。

 

撤退を発表するホンダの福井威夫代表取締役社長(右)
 自動車メーカーを含む現代の企業経営は、投資家たちが短期での成果と報酬を求めるために、中長期的な展望の経営や開発がしにくい。社長や役員も投資家や株主総会によって指名された「雇用者」という立場になっている。そのため、長期的な展望に立った経営や「社長の一存」が通りにくくなり、多額の費用がかかるモータースポーツ活動を聖域とするようなことはできなくなっている。

 原材料の価格も、石油のように投機対象となることで価格が乱高下し、経営と経済活動を圧迫する。また新興国での需要増は、新規の販売ルート拡大の可能性にもなるが、それ以上に原材料価格上昇を加速している。自動車メーカーの企業経営は、パラダイムシフトしなければならない時に来ている。

 しかも、今日のような世界的な景気後退で新車の販売が大幅に落ち込むのが見えている中で、レース活動に正当な理由と直接的なメリットがない限り、それに多額のカネを投入することは経営上許されないし、それをゴリ押しすれば株主総会で役員たちは更迭されるだろう。MSEC会場でも、ホンダのF1撤退の決定に最初は衝撃もあったし、イギリスから来た人たちからは、1999年にホンダが独自F1チーム設立を突如やめたことで、放出されたスタッフたちが苦しんだことを思い出して、憤る声もあった。だが、次第にホンダの決定は、当然の結果だろうという声も多くなった。

ナンセンスなF1の高コスト体質

 実際F1の高コスト体質は、自動車メーカーにとってナンセンスなものになっている。エンジンでせいぜい20馬力ほどパワーを上げるのに、数十億円をかける。しかし、その技術はほとんど市販車に還元できない特殊なもの。空力にしても大部分の技術はF1に特化しており、スーパースポーツカーを製造する以外、その技術は市販車に直接転用できない。それでも競争の中で莫大なコストだけがかかっている。

 長期的な視野に立てば、人材の育成やブランドイメージ構築になるかもしれないが、参戦費用が年間数百億円という異常な現状では、短期の利益を求める株主や投資家から「F1など止めろ」と言われるのは明白だ。

 そこで、FIAはF1に環境対策技術開発の導入を打ち出した。環境対策技術開発を導入することで、社内のレース部門が存続でき、活動予算を取りやすくし、参戦を認めてもらえる理由にするためだ。

 当初自動車メーカーとチームはこれに反対した。ところが、昨年からはF1参戦自動車メーカーの団体が、FIAとともに環境対策技術開発をF1に積極的に採り入れると、姿勢を転換した。危機に直面したことで、メーカーもチームもやっとFIAの真意を理解し始めた。

 それでもナンセンスなまでのコスト増に歯止めをかけないかぎり、F1はいずれ立ち行かなくなる。NASCARはF1の倍以上のレース数を転戦し、その移動はF1のヨーロッパ大陸の移動よりも長く厳しい。それでも、F1の10分の1以下の参戦コストでまかなっている(それでも、コスト高だとしている)。

 アメリカのレース関係者からみれば、空力カバー付きのホイールナットだけを開発するために数十億円をかけているF1の現状は、憧れるよりも正気を失った冗談に思えると言う。どこかで誰かが歯止めをかけなければ、いずれは共倒れという破滅的な結末に向う。まるで、東西冷戦時代の軍拡競争のようだ。

ワンメイク志向と、「走る実験室」の両輪で
 そこでFIAは、まず2010年から3年間の共通パワートレーン案を提示した。入札の結果、コスワースレーシングのエンジン、Xトラックとリカルドによるトランスミッションが選定された。その供給費用は、4チームが採用した場合、頭金194万ユーロ(2億3688万円、1ユーロ122円で換算)に、年額642万ユーロ(7億8324万円)×3年となる。

 この供給金額は1チーム(2台参戦)あたりのもので、全戦参戦のほか、公式テスト走行と、年間3万kmまでのテスト走行も含めた供給サービス体制としている。また、利用契約チームが増えれば、1チームあたりの供給費用は上記よりも減る。チームの財政負担はかなり減るはずだ。

 そして、もしもホンダに続かざるを得ない自動車メーカーがまた出たとしても、チームのパワートレーン確保についてセーフネットを張ることができる。新たな空力規定も加わることで、1970年代のようなチーム間、ドライバー間のバトルがより活性化する可能性もある。見方を変えれば、この共通パワートレーン案は、自動車メーカーがほとんど抜けた1970年代に新たな繁栄をもたらした、DFVエンジンとヒューランドギヤボックスの現代版のようだ。

 FIAの提案では、自動車メーカーには、共通パワートレーンと同様のものを独自開発する可能性なども提示され、エンジンに独自ブランドを付けるチャンスも残している。

 現状の自動車用ガソリンエンジン技術にも、まだ開発の余地があるだろう。しかし、先述のようにF1のエンジンは市販車用のエンジン技術を開発する場ではなくなってしまった。エンジン開発とパワーでF1を制し、それが市販車の技術に直結するというのは、過去の幻影でしかないのだ。

 一方で、FIAは2013年からF1に新たなパワートレーン技術の導入を目指している。それはエンジンを利用するが、さまざまな燃料や高効率化装置を搭載するもので、自動車の環境対策技術に役立つ「走る実験室」になろうとするものだ。これには参戦自動車メーカーも興味を示しており、現在そのルールのまとめに入っている。そのためFIAは独自のシンクタンクのほか、自動車メーカーや大学などの研究機関、他のレース統括団体、SAEなどの学会とともに、各種の専門知識の導入や科学的研究を進めようとしている。繰り返しになるが、ここから出てくる提案は単なる思い付きではなく、科学的にも裏打ちされたものである。

 時代と社会は大きく変化している。この変化は、排ガス対策の60年代後半から石油ショックの70年代前半にF1が経験したものよりも、大きなものになるだろう。F1もモータースポーツも、時代の変化に対応できなければ、いずれ蒸気機関車のように、記念走行会など甘美なノスタルジーの中だけで生き残る道を探るしかなくなるだろう。

 F1は、よりエキサイティングなレースをしながら、未来の自動車のための新たな技術を作り出す「走る実験室」に生まれ変わることで、その存続を図ろうとしている。経済危機によって、参戦メーカーやチームも現状をより直視して、現状維持の姿勢から改善をより積極的に考えるように変わって来ている。あとはメディアとファンがどう変わるかだ。

 過去の幻影に捕らわれたままで考えをシフトできないでいると、F1と時代は猛スピードで追い越して行くことになるだろう。

【お詫びと訂正】記事初出時、ホンダが独自チームの設立を撤回したのが2000年と記載しましたが、正しくは1999年でした。お詫びして訂正させていただきます。

URL
FIA(英文)
http://www.fia.com/
共通パワートレーンのニュースリリース(英文)
http://www.fia.com/en-GB/mediacentre/pressreleases/f1releases/2008/Pages/f1_costs.aspx
関連記事
【2008年12月5日】ホンダ、F1撤退を決定
http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20081205_38227.html

(Text:小倉茂徳 Photo:奥川浩彦、編集部)
2008年12月12日