特別企画
【特別企画】IR(統合型リゾート)を合い言葉に大きく変貌を遂げる街「マカオ」に行ってみた(後編)
グランプリ博物館とマカオGPのコースを訪ねて
(2015/1/9 00:00)
前編では、マカオへの行き方や変貌するマカオの現状をお届けした。この後編ではマカオGP関連の情報を中心にお届けしていく。
●【特別企画】IR(統合型リゾート)を合い言葉に大きく変貌を遂げる街「マカオ」に行ってみた(前編)
http://car.watch.impress.co.jp/docs/special/20150108_682332.html/
F1への登竜門となっているマカオGPはセナ、シューマッハも通ってきた道
前編ですでにマカオライフを満喫した筆者だが、Car Watch的な旅行の目的はマカオGPということで、マカオGPに関連したスポットを紹介していきたい。
マカオGPは、例年11月の第3週に行われている、ギアサーキットと呼ばれるコースを利用して行われる自動車レースだ。ギアサーキットは常設サーキットではなく、マカオの公道を閉鎖して作られるサーキットになる。マカオGPの歴史は古く、1950年代から草レースのような形で行われており、1960~70年代まではフォーミュラカーとツーリングカーが併走するなど偉大な草レース的な存在だった(後に分離)。日本のレーサー(現トムス代表の館信秀氏など)がギア・レースというツーリングカーレースに出場して勝つなど、徐々に日本やヨーロッパのプロレーサーにも知られる存在になっていった。
そのマカオGPが一挙に有名になったのは、1983年にF3規定のフォーミュラカーレースがメインレースに据えられてからだ。それまでF3規定のレースは、イギリスF3、ドイツF3、フランスF3、日本F3と、各国それぞれレースが行われていたが、マカオGPはその上位ランカー達が集合し、文字どおりF3の世界一を決めるレースとして成立したからだ。しかも、その最初のレースとなった1983年のマカオGPに優勝したのは、この年のイギリスF3チャンピオンであったアイルトン・セナだった。その翌年にF1にステップアップしたセナの活躍は誰もが知るとおりで、そのセナがスターダムにのし上がるのと同時に、マカオGPのプレステージも年々上がっていき、マカオGPに勝つことがF1昇格への切符となっていったのだ。
そうしたマカオF3の価値をさらに高めた歴史に残る1戦となったのが、1990年のマカオGPだ。この年の年間優勝の最有力候補が、イギリスF3チャンピオンにして後のF1王者(1998年、1999年)となるミカ・ハッキネン。そしてその対抗馬と目されていたのが、ドイツF3のチャンピオンにして後に7度(1994年~1995年、2000年~2005年)のF1王者となるミハエル・シューマッハだった。
この当時のマカオGPは、土曜日にヒート1、日曜日にヒート2が行われ、その合算で勝者が決まる形になっていた。そのヒート1に勝ったのはハッキネンで、ハッキネンが絶対優位でレースが進んでいた。しかし、ヒート2でハッキネンの前に出たシューマッハは、いわゆる“鬼ブロック”でハッキネンを2位に封じ込めるドライビングを展開。合算タイムで決まる総合優勝は無理でも、ヒート2の優勝は手に入れようという意地のドライビングを展開していた。
そうした中、最終ラップのリスボアベンド(リスボアホテル手前のコーナーのこと)手前で、やや強引とも思えるオーバーテイクに出たハッキネンに対してシューマッハはブロック。両車は接触し、ハッキネンのクルマはガードレールでクラッシュして止まりリタイア。これに対してシューマッハはリアウイングは壊したものの、そのまま残り4kmを走りきり、2位に大差をつけていたこともあってそのままヒート2を優勝しただけでなく、ヒート1の勝者だったハッキネンがリタイアしたことにより総合優勝も獲得した。そのマカオでグローブを地面に叩きつけながら悲嘆に暮れるハッキネンの映像は、F1に上がってからも何度も使われたものだった……。
日本人にとって最も思い出深いマカオGPといえば、やはり2001年を忘れることはできないだろう。この翌年にF1に昇格することが決まっていた佐藤琢磨は、周囲の反対を押し切ってマカオGPに参戦し、見事優勝を遂げたのだった。この佐藤琢磨の優勝はマカオGPメインレースでの日本人初優勝でもあり、日本のファンの悲願を実現してくれた年といってもよい。
このように、後にF1に上がっていくような逸材はいずれもF3を経験しており、その意味で現在F1でトップを張っているようなドライバーのほとんどは、このマカオF3を経験しているといってよい。2014年のランキングを見ても、1位のルイス・ハミルトン(2004年/レース1優勝)、2位のニコ・ロズベルグ(2004年)、3位のダニエル・リカルド(2009年)、5位のセバスチャン・ベッテル(2005年/3位)、8位のジェンソン・バトン(1999年/3位)と並び、さらに小林可夢偉(2006年ポールポジション獲得)もマカオ出走経験がある。ただ、近年はF3よりも、GP3からGP2へというのがF1へのステップアップの道となりつつある。最近デビューした若手ドライバーの中には、マカオGPに出走していないドライバーが増えつつあるというのが現状だ。
日本との関わりという意味では、前述の佐藤琢磨の優勝以外にも、2008年の国本京佑が優勝している。さらにはヨコハマタイヤ(横浜ゴム)が1983年以来、2014年まで31年間にわたって一貫してタイヤを供給しているということに触れておく必要があるだろう。つまり、セナも、ハッキネンも、シューマッハも、ベッテルも、ハミルトンも、ロズベルグも、小林可夢偉も、全員が1度はヨコハマタイヤのレーシングタイヤを履いてマカオGPの公道レースを戦い、その後F1へ昇格していったのだ。その足下を支えていたのが、我が国のタイヤメーカーだといえば、ちょっと胸アツではないか。
無料のグランプリ博物館に行けば、セナが優勝した時のラルトRT3・トヨタに会えるぞ!
そうしたマカオGPの歴史を勉強するのに最適な博物館がマカオにはある。それがその名のとおり「グランプリ博物館」(澳門大賽車博物館、431 Rua de Luis Gonzaga Gomes Macau、10時~20時開館で火曜休館)だ。ツーリズムアクティビティセンターの地下1階にある同博物館は、マカオGPの歴史にちなんだ展示を行っている。なお、入場料はなんと“無料”で、行けばタダで中を見ることができる。マカオに行ったのであればぜひとも立ち寄りたい場所だ。
なかでも見所は、歴史的な遺産といってもよいマカオGPの優勝車両だろう。1983年のF3規定のスタートから数えても、2014年までに32台の優勝車両がある計算になる。もちろん全部の車両が展示されている訳ではないが、歴史的な数台やF3規定になる以前の車両なども展示されており、F1ファンなら涙モノの車両が多数展示されている。その中で筆者お薦めの車両を3台挙げてみよう。
1 1983年のアイルトン・セナ優勝時のラルトRT3・トヨタ
2 1990年のミハエル・シューマッハ優勝時のレイナード903・VW
3 2001年に佐藤琢磨優勝時のダラーラF301・無限ホンダ
すでに記したが、マカオGPの格式を上げて歴史を作ったのが、F3規定初年度の1983年にイギリスF3の王者となった若きブラジル人のアイルトン・セナ。説明する必要もないと思うが、後に1998年、1990年、1991年と3度F1ワールドチャンピオンとなった伝説のドライバーだ。そのセナが1983年のマカオGPで駆ったマシンがこのラルトRT3・トヨタ。ちなみに、そのレースで3位になったのが、後に1990~1992年にマクラーレン・ホンダでチームメイトとなるゲルハルト・ベルガーだったというのも、ちょっとした因縁めいた事実としてよく知られている。日本のF1ファンには、1991年の日本GPの最終ラップ・最終コーナーで、当初の約束どおりにセナがベルガーに優勝を譲ったエピソードは昨日のように思い出されるのではないだろうか。
なお、この1983年のマカオGPに、セナは「セオドール・レーシング」から出場しているが、その実体は英国の名門チームであるウェストサリーレーシングだった。実際セナはこの年にイギリスF3を同チームで走ってイギリスF3王者になっているのだが、なぜマカオGPだけはセオドール・レーシングとしての参戦になっているのかというと、それにはマカオとの深い関わりがある。セオドール・レーシングというチームは、マカオのカジノ王として有名なスタンレー・ホー氏(リスボアホテルのオーナーで、現在もリスボアホテルなどを経営している)の義弟であるテディ・イップ氏(故人。1907~2003年)が主催していたレーシングチームの名称(セオドールは同氏のミドルネーム)で、マカオGPではスポンサーとしてイップ氏のセオドール・レーシングがウェストサリーレーシングをサポートする形で参戦していたため、こういう形になっていたのだ。イップ氏は、一時(1978年、1981年~1983年)は趣味が高じてF1に参戦したことがあるほどのレース好きで、マカオGPにも古くから参戦しており、自チームで参戦していないときには、こうしたヨーロッパのチームごとレンタルするという形で参戦していたのだ。
この形式はその後も続き、1990年にミカ・ハッキネンがシューマッハと優勝を争った時も、やはり実体はウェストサリーレーシングだが、セオドール・レーシングの名称で参戦している。なお、イップ氏は2003年に他界しているが、グランプリ博物館には同氏の功績を表彰するコーナーも用意されており、往時の様子などを偲ぶことができる。しかし、毎年のようにそうした若いドライバーのスポンサーになれるとは、世界のお金持ちは桁が違うなと、感心することしきり……。
1990年のエピソードに関してはすでに紹介したとおりで、展示されているのはその時にシューマッハが乗っていたレイナード903・VWだ。その時に壊れたはずのリアウイングはもちろん修復されて展示されている。というよりも、そもそもこの当時(1990年から1993年まで)はマカオGPの翌週に、富士スピードウェイでインターナショナルF3リーグという国際戦がもう1レース開催されており、シューマッハも、そしてハッキネンもこのレースに参戦している。シューマッハはそのインターナショナルF3リーグでも優勝し、富士のレースに向けてマカオGPで壊れたリアウイングは修復されているので、その後にこの博物館に展示されたであろうマシンが直っているのはあたり前なのだ。
そのほかにも、複数の優勝車、F3規定以前のレース車両、2輪レースのバイクなどが展示されており、どこを見ても興味深い展示ばかりだ。特に日本のオールドF1ファンにとっては、日本との関係が深かったアイルトン・セナがスターダムにのし上がるきっかけともなった車両は涙モノといってよく、これを見るためだけにマカオに行く価値があるといってもよいのではないだろうか。
メルコヘアピンからリスボアベンドまでマカオGPのコースを巡ってみる
すでに述べたとおり、マカオGPの会場であるギアサーキットは、マカオの公道を一時的に閉鎖して作られる公道コースなので、レース開催時以外はマカオ市民が普通に利用する道路となっている。つまり、普段はそこを歩いたり、クルマで通過できるということだ
そこで今回は、前編で紹介したバスとマカオ・パスを使う手法を駆使して、マカオGPのコースにある有名なコーナーを巡ってみることにした。なお、マカオGPのコース図はマカオGPの公式サイト(http://www.macau.grandprix.gov.mo/cgpm/matchpath/)にあるので、興味がある方は参照してみてほしい。
●1.スタート・フィニッシュライン
スターティンググリッドやグランドスタンドが用意されるスタート/フィニッシュラインは、香港空港からの観光客がフェリーで到着するフェリーターミナルにある。普段はフェリーで到着した観光客がカジノホテルへのシャトルバスなどに乗り換えるバスターミナルが、レースの時にはパドックになり、バスターミナルの奥側にある建物がピットビルとして機能する。レースが行われていない期間には、ピットビルの上にある横断歩道が貯水池公園に抜けるための通路として誰でも通行できるようになっているので、ピットビルの上を通過して見ることができる。
グランドスタンド側に行くと、ピットガレージの様子、コントロールタワー、さらにはスターティンググリッドなどを確認することができる。筆者が訪れたのは12月上旬で、レースが終わって半月が経過した状態だったが、それでもくっきりとグリッドのペイントが残されたままだった。おそらく1年中このままで、レースがあるときにまた塗り直されるというオペレーションなのだろう。なお、貯水池のまわりは市民がマラソンやサイクリングなどを楽しめる公園になっており、筆者が訪れたときもマカオ市民がジョギングするなど思い思いに利用していた。そんな静かな公園が、マカオGP開催時には人でいっぱいになるのだから、公道レースってすごいな、日本でもやってみてほしいなぁと感じた。
●リスボアベンド~サンフランシスコヒル
マカオのカジノホテルの代名詞ともいえるリスボアホテルがあるのでこの名前になったのが“リスボアベンド”だ。リスボアベンドは数kmにおよぶほぼ直線コースの後に訪れる90度直角のコーナーで、歴史的にこのコーナーにさまざまなドライバーが突っ込んでレースの勝利を失ってきた。近年で最も有名なクラッシュは、2014年のF1タイトルを争ったルイス・ハミルトン、ニコ・ロズベルグの2人が、2004年のレース2で同時にクラッシュした例だろう。この2004年のレース2ではロズベルグがトップを走っていたのだが、このリスボアベンドの進入でリアがすべり、曲がりきれずにガードレールに突っ込んで、そのすぐ後方を走っていたハミルトンもそれをよけきれず、ロズベルグに追突する形でクラッシュ。両者とも勝負権を失ってしまったのだ。興味がある人は「Macau」「Rosberg」「Hamilton」などをキーワードにネット検索してみるとよいだろう。
それほど難しいこのリスボアベンドだが、普段は、リスボアホテルの入り口になっており、そのカジノホテルの向かいには質屋が並ぶという何ともシュールな通りになっている。そのリスボアベンドから数百mほど進んだところにある坂が、ギアサーキットではサンフランシスコヒルと呼ばれている部分。平地のコースから山側に向かっていくポイントで、実際に行ってみると山側に向かって上り坂になっていることが分かる。
なお、リスボアホテルは新館となるグランド・リスボアホテルという新しい建物を建設しており、奇抜なデザインによって、よい意味でもわるい意味でもマカオの新しい象徴となっている。
●3.メルコヘアピン
ギアサーキット最大の難所とされているのがこのメルコヘアピンだ。このヘアピンカーブは鈴鹿サーキットのヘアピンカーブよりもさらに厳しいカーブとなっており、ほぼ360度近く回り込む必要がある。自動車レースのサーキットでいえば、F1モナコGPの通称“ローズヘアピン”よりも角度がきつく、かつ狭いというのが特徴になっている。以前は、このヘアピンも抜き所だったが、近年はF3とはいえ車速がかなり上がってきているので、危険であるという理由で追い越し禁止区間になった。それでも、ドライバーにとってはフォーミュラカーではあり得ないぐらいに速度を落とさなければ曲がれないコーナーであり、毎ラップ緊張を強いられることになる。
今回初めてこのメルコヘアピンに行ってみたが、通常時は対面通行の普通の交差点だった。このヘアピンはすぐ先が下っている形になっており、上から下に下っていくクルマは、内輪差が大きなバスなどはかなり大回りしないと通過できないというのが印象的だった。なお、普段も信号はなく、各車が順序よく譲り合いながら曲がっていく様子が印象的だった。このメルコヘアピンを下っていくといわゆる海側のコースになり、スタート/フィニッシュラインに到達することになる。
カジノだけじゃない、IR、世界遺産、マカオGP、多様な楽しみ方がマカオにはある
ちょっと駆け足でマカオの魅力を紹介してきたが、マカオといえば“カジノだけの街”といった常識はもう古いということがご理解いただけたのではないかと思う。カジノはレジャーの1つとしてそれなりの魅力があることに変わりはないが、それ以外にもホテル、レストラン、ショッピング、ショー、さらにいえば今回紹介したようなマカオGPや、ほかにもポルトガル統治時代の遺構となる世界遺産などの観光もある。昼は世界遺産やマカオGP関連施設、あるいはマカオの下町をバスを駆使して観光を満喫し、夜はコタイ地区のホテルに宿泊してショーやショッピング、あるいはカジノを楽しみながらステイするという、日本では体験できないような魅力を持っている。
もちろん、家族での楽しみ方も違ってもいいと思う。子供たちが喜びそうなDreamWorksのキャラクタールームに宿泊し、お父さんはカジノ、お母さんはショッピング、子供たちは年齢に応じて観光や部屋でゲームをするといった楽しみ方だってありだろう。多彩な施設が整っているIRだけに、さまざまな楽しみ方が可能なのだ。
これまでこうしたIRといえば、日本人にとってはラスベガスだったと思うが、それと同じような施設が、日本からラスベガスに行くより遙かに近いマカオにそろいつつあるのだ。マカオであれば時差もラスベガスより小さく、旅行時間も短いので身体への負担も軽いはず。次の旅行では、マカオを行き先の1つとして選択肢に加えてみてはいかがだろうか。