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国枝慎吾氏がホンダウエルカムプラザ青山に登場 現役引退やテニスとの出会い、自由に移動できる喜びについてトークイベント開催
2023年2月15日 18:59
- 2023年2月12日 開催
どうもアカザーっす! 2000年にスノーボード中の事故で脊髄を損傷し、車いすユーザーになってかれこれ22年。2021年に開催された「東京パラリンピック2020」でのパラアスリート達の活躍に影響され過ぎて、2022年から車いすでアーチェリーを始めちゃったオレです。
そんなにわかパラアスリート1年生のオレの元に、ホンダさんから「福祉車両展示イベント&国枝慎吾スペシャルトークショー」取材の案内が届きました!
見ているだけで熱くなる! 国枝選手のラケットとトロフィー
国枝慎吾選手といえば、東京パラリンピックの車いすテニス(男子シングルス)で優勝、金メダルを獲得! 先シーズンは念願の生涯グランドスラムも達成! そしてプロテニスプレイヤーの引退を発表したばかりという、車いすテニス界のレジェンド! というか車いすスポーツの枠には収まりきらない、世界に誇る日本のトップアスリートです。
そんな国枝慎吾選手の取材と聞いたら行くしかない! というワケで、2月12日の正午前に、東京青山にあるホンダウエルカムプラザ青山に到着! トークショー開始30分前というのに、すでに座席は前から1/3ほどが埋まっています! 国枝さんの人気すげぇ!
驚いてばかりもいられないので、俺も座席を確保してさっそく展示品の撮影を開始。まずは、ステージ中央のテーブル上に置かれた国枝選手のラケットに接近。他のお客さんもかなり寄って写真を撮りまくっています! 皆さんの狙いはラケットの内側に貼られたこのシール。
ピンチの国枝選手を幾度となく鼓舞してきたであろう“オレは最強だ!”の文字が書かれているシールです。よく見ると“オレは最強だ!”の後ろには“リラックス”の文字も。ていうかコレはシールではなくテーピングテープでは⁉ しかしラケットからのオーラが凄いんですけど! いや~、国枝選手と共に数々の激闘を乗り越えてきたラケットは迫力が違うぜ!
さらにステージ横に目をやると、そこには国枝選手のユニフォームと、全豪、全仏、全英、全米という4大大会のトロフィーが並んでいます!
2022年のウインブルドン選手権のトロフィーがひときわ輝いて見えるのは、国枝選手の生涯グランドスラムを達成した最後のトロフィーだからでしょうか⁉ グランドスラムの優勝回数は史上最高の50回(シングルス28回、ダブルス22回)を数える国枝選手ですが、ウインブルドン・シングルスのトロフィーだけは、2022年まで手にしたことがなかったんです。
その理由はいくつかあります。車いすテニスのウインブルドン選手権男子シングルスが始まったのが2016年と比較的最近だったこと。そして奇しくもその年は、国枝選手が右ひじを故障し絶不調の年。さらにウインブルドンのみが芝のコートで、これがまた車いすが転がらない! 国枝選手の持ち味であるチェアワークを活かしづらいコートサーフェイスだったことなどが挙げられます。
車いすユーザーの方はご存じだと思うのですが、フローリンクなどは抵抗がないので車いすを漕ぎやすいのですが、ホテルのフカフカ絨毯などは車いすだとぜんぜん前に進めないほど足(というかタイヤ)をとられるんです。
なので、俺たち車いすユーザーからすると、“芝のコートで車いすテニス”と聞いただけで、他のコートでやる車いすテニスとはまったく違う競技になるのでは?と思ってしまうのです。それは国枝選手にとっても同様だったようで、ウインブルドンの芝サーフェイス攻略に手を焼き、2022年夏にやっと念願のタイトルを獲得! そこで思わず口から出た言葉が「これで引退だな」だったそうです。
そして2022年の全米オープンが終わった後から「もう十分やりきったな」という言葉がふとした瞬間に口に出るようになり……。2023年1月22日に「最高の車いすテニス人生でした」というコメントと共に現役を引退されました。
グランドスラムのトロフィーを見ながら、胸熱だった2月7日の国枝選手の引退会見に思いを馳せていると、あっという間にイベントの開始時間!
司会者の「パラリンピックそして車いすテニス4大大会など、数々の世界の舞台を制しキャリアゴールデンスラムを達成されました、プロ車いすプレイヤー国枝慎吾選手でございます。どうぞ皆さん拍手でお迎えください」の声と共に国枝選手が颯爽と登場!
拍手と共にどよめく会場! オーラが凄い! 観客が見つめる中、日常用車いすからテニス用の車いすに乗り移る国枝選手。そして開口いちばん「元車いすテニス選手の国枝慎吾です」。“元”と名乗ったところに、国枝選手がすでに競技者を引退したという線引きが感じられました。
プロになって間もないころから国枝選手を支えてきたホンダとの関係
そしてホンダとの関係の始まりのエピソードを披露。
「ホンダさんとは僕がプロに転向した時からスポンサーをしてくださっています。2007年に『情熱大陸』という番組で運転している姿が放映されたんです。その時に乗っていたのがオデッセイです。その時にたぶんホンダさんの上のほうの人が観てくれたんじゃないかなと思っていて、それでお声がけいただいてスポンサー関係を続けてきた、ということなんです」
ホンダのモノづくりの信念“自由に移動できることが喜びにつながる”という話題については、国枝氏は自身の愛車であるオデッセイの話を挙げた。
「クルマはやはり車いすの方にとっては必需品でもあって、僕が免許を取ったのは18歳の誕生日だったんです。高校3年生の時に教習所に通って、とにかく自分自身で動けるっていう環境を欲してましたね。まだまだその当時は電車移動は駅にエレベーターがなかったり、誰か人の手を借りないと動けない時代でもあって。今でも電車よりクルマのほうが圧倒的に利便性が高いので移動は99%クルマですし。電車だと目的地にエレベーターがない、階段しかないということがあったりするんで。都内ではだいぶエレベーターがついてはいるんですけど、最終目的地に行こうとするとけっこう遠回りをしないといけない。あとは雨ですね。雨はけっこう車いすユーザーたいへんなんですよ。傘さして漕げないんで、カッパ着てってなるんで、そうなるとやはりクルマなんです」
ちなみに国枝選手は手動運転装置付きのオデッセイを3台乗り継ぐほど気に入っており、車内ではサザンやミスチルなどを歌ったりしながらドライブを楽しんでいるとのこと。
このイベントの日、ホンダ青山には「新型ステップワゴンSPADA福祉車両仕様」と「フィットe:HEVテックマチックシステム仕様」も展示されており、それぞれに試乗したコメントも述べられていました。
現役を引退してから変化した日常
引退されてからの気持ちや生活に変化はありますか?との質問には、
「気持ちというかやらなくなったことは、朝起きて寝違えてないかとか、腰は痛くないかとか、現役時代はやっていた身体のチェックをやらなくなりました。また、現役中は大会が迫ると眠れない日もあったりしたので、それからは解放されたなと。それで朝9時半とかまで寝ちゃってたりして(笑)。もう今日は朝ごはん食べなくていいやとか。現役中は食べる事も仕事だったので、食べる事が仕事じゃなくなって、体重は落ちてきていますね。あと毎朝鏡を見て『オレは最強だ!』って言わなくなりました。そこからも解放されました(笑)」
引退に向かっていった気持ちの経緯については、
「いちばんは東京パラリンピックのあの舞台だったと思います。2013年に東京開催が決まってからの8年間の思いが込もった試合があの舞台だったので、そこで金メダルが獲れたので、そこからは燃え尽き症候群を経験しました。でも昨年はウインブルドンが残っているというのがあったので、それに向かってなんとかそこまではという気持ちでやっていって、ウインブルドンへの想いが実って、芝生のコートの上でみんなと抱き合ったときに『もうこれで引退だな』というのが最初に口に出て、自分自身引退というものを意識しながら1年間プレイしてそれを終えた時にもう充分やり切ったと。そういうふうに言えるテニス人生だったなと。やっぱりアスリートってみんな野心を持っていないといけないと思うんです。『何か成し遂げたい!』それが僕のなかから(ウィンブルドンの後)消えてしまったんです。この感情のままプレイするのは、自分がいままでやってきた事に反するなと思ったんで、ラケットを置くという決断をしました」
そんなすべてをやり切ったという心境で引退を決めた国枝選手でしたが、引退届を出す時は震えたという。
「引退届を出すとランキングから名前が抜けるんですけど、それ出すときは震えましたね、僕も。引退を決めて(引退届を)出すまで2週間くらいあったんですが、本当にこれを出したら終わりだという最後の最後は揺れました。でも出してから、まだまだ自分自身新しい事を見つけて、新しいチャレンジが始まるというふうに思えたら、出してからはスッキリしました。さあ新しい1日だ、何がこれからできるのか? ということころを、自分自身で見つけるという、本当に新しい人生が始まったなという気持ちですね」
国枝選手と車いすテニスとの出会い
はじめてラケットを握った時のことは覚えていらっしゃいますか?の質問に、国枝選手は遠くを見つめるような眼差しでこう答えました。
「今でも通っているテニスクラブに行ったんですが、どのメンバーがいてどのコーチが居てだとかぜんぶ憶えています。まさかその時に皆さんの前でこうして喋れるとは思っていませんでした」
国枝選手は脊髄の病気により9歳の時から車いす生活になったが、何にでもどんどんチャレンジしていく子供だったとのこと。
「新しい事にチャレンジするというよりも、皆さんがスポーツを楽しむように僕もスポーツをしたかったからたまたま(車いすテニスを)選んだっていうだけで。たまたま家から30分のところに、当時から車いすテニスのレッスンをやっていたテニスクラブがあったんです。そんな民間のテニスクラブ世界中を探してもそこしかないです。家から30分のところにそれがあったのが、まず最初の運命です。でも僕はその当時バスケがやりたかったんです。ちょうど僕の世代はスラムダンクなので、僕は三井になりたかったんです(笑)」
そしてそのテニスクラブでは、車いすテニス以上に大切な事も学んだという。
「テニスクラブに行ってみたら、テニスってこんな激しいスポーツなんだ!と。また車いすの人ともそこで出会うわけです。それまでは健常者の生活だったし、車いすの人ともぜんぜんお話をしたことがなかったんです。そのコミュニティに入って、(その車いすの人たちが)車いすでも自分でクルマを運転し、テニスクラブに来て、車いすを載せて降ろしてっていう姿をみて、11歳の国枝少年が何を思ったかというと、『あ! 車いすでもひとりで生きていけんじゃん』と思ったんですね。それがもしかしたら、テニスをこうして職業としてやっていたことよりも、すごく大事な何かを彼らから学んだんじゃないかな、というふうに今は思えますね」
近所のテニスクラブでの上達がただ面白く、趣味として車いすテニスを楽しんでいた国枝少年が、プロを目指すきっかけは高校1年生の時の海外遠征。
「高校1年生の時にテニスクラブの理事長からだいぶうまくなってきたんで、いちど海外に行ってみたら?と言ってくれて。でも、あまり気乗りじゃなかったんです。でも行ってみたら、世界のトップ選手はラケット1本で生活している人が何人も居て、それを見て衝撃を受けましたね。これはテニス好きの方にはあまりよいマナーとはされてないんですが、海外の選手は血気盛んで、ストレスが溜まってくるとラケットをこうパーンと。なんだこの人たちは、と。今まで僕がやっていた車いすテニスとぜんぜん違うスポーツをやってんなと、衝撃として受けました。でもそれは最後まで真似することはありませんでしたが(笑)。テニスで食ってんだという生活があることを衝撃として受けましたね。そして彼らとネットを挟んで試合をしたいなといのが、初めて自分の中で持った夢でした」
そして話は、有名な“オレは最強だ!”という言葉が誕生したエピソードへ。
「2006年頃に世界ランキング10位が2年か3年続いたんです。その殻をどうにか破りたいというところで、出会ったのがアン・クインさんという世界のナンバーワンテニスプレイヤーを何人も育てて来たメンタルトレーナーの方で、その方からカウンセリングを受けたんですね。その当時の僕はまだまだ生意気でありましたから、僕はメンタル弱くないし、メンタルトレーニングなんていらないよ、と。そんな中でみてもらったときに『僕はナンバーワンになれる?』って聞いたんです。それに彼女は『これからはオレがナンバー1になると断言をしなさい、そこからはじまるよ』と。そこから毎朝鏡を見るときに『オレは最強だ!』と自分に言い聞かせる。このラケットにも“オレは最強だ!”とここに貼る。コートの中だけじゃなくてコートの外でもそういうトレーニングをしていきましょうと。最初は半信半疑でした。でもまずやってみないと分からないなと。で、やってみたと。そうするとですね、その3か月後にいきなりグランドスラムで優勝しちゃったんですよ。グランドスラムで優勝すると“オレは最強だ!”っていう力がさらに増してくるんですよね。その好循環にハメていって、それまでの2~3年間は世界ランキング10位だった僕が、その年末には世界ランキング1位だったという事が、その後の現役時代に“オレは最強だ!”をずっと続けた事のはじまりです。“オレは最強だ!”と言い続けると集中力が高まり、練習もクオリティが上がるんです」
変えていくこと、チャレンジしている瞬間がいちばん楽しい!
世界ランキング1位になってからも、チャンピオンであり続けるため、勝ち続けるために国枝選手がしたこと。それはたとえ自分が勝者だとしても、自分を変え続けることでした。
「変えるのがいちばん楽しいんですよ。変えないでずっと同じ気持ちで同じ練習をしていると、僕もさずがに飽きちゃいます。やはり何かを変えようとしている、それによって変わる自分がいちばん楽しいんで、それを追い求めてやっていくとどんな練習でも楽しい。逆にいえば課題が見えてない時の練習ほど無意味なものはないので、それだけは注意しながらコートに入ってましたね」
国枝選手が選ぶベストゲーム3は、グランドスラムいちばんの思い出となった「2022年ウィンブルドン」。肘のけがから復活しタイトルを獲った「2018年全豪オープン」。そして東京オリンピックが決まった2013年からの8年越しの思いを叶えた「2021年東京パラリンピック2020」とのこと。
逆に人生でいちばん悔しかった試合は、2016年の「リオパラリンピック2016」。肘のけがもあって王者から挑戦者に変わった瞬間は悔しさもあったが、このままじゃ終わらないぞとも思っていたという。
約40分間にわたる国枝選手のトークショーは終始金言に満ちていました。そのなかでもオレの心をいちばん揺さぶったのが、夢に向かってチャレンジする時のこの言葉でした。
「僕自身何かにチャレンジしている時がいちばん楽しいんです。さっきのテクニックもそうじゃないですか、変えている時がいちばん楽しい。これからもそういう生活をしたいな。何か挑戦するような生活がしたいなというふうに思っていますし。そうじゃないと生きている実感もないなと思っちゃうので。失敗も今まで何度もありました。けがもしましたし、テクニックが間違っていることなんて沢山あったんですけど、間違ったら間違ったでまたやり直せばいいし、戻ってくればいいしというふうに思っているんで、とにかく何でもやってみるということは、このキャリアを通して凄く学んだことかなと思いますね」
右肘の故障で引退まで考えたどん底からフォーム改造に挑戦。それから5年後の東京パラリンピックで金メダル。成し遂げて来た男の言葉は響く!そしてこれまでのキャリアを捨てさらなる挑戦の旅に!国枝慎吾は最強だ!pic.twitter.com/ZrLjFGFWbG
— アカザー (@AKZ161)February 13, 2023
オレと国枝選手の出会いは2010年に有明で行なわれた、脊髄損傷者による歩行披露イベント~「KNOW NO LIMIT 2010」でした。そこで国枝選手が“17年ぶりに立って歩くという奇跡”を目にして、大きな希望をもらいました。すでに北京パラリンピックで金メダルを獲ってプロにもなっていた国枝選手が、車いすテニスのトレーニングの合間を縫って、厳しい歩行トレーニングを続けた結果、成し遂げられた17年ぶり歩行なのだろうということは想像に難くありませんでした。
そして今日この場で「僕自身何かにチャレンジしている時がいちばん楽しいんです」という言葉を聞いて、12年前に有明で見た国枝さんの姿を思い出しました。たぶんあの時の国枝さんは17年ぶりに歩くというトレーニングを楽しんでいたんだろうなぁ、と。そして当時のオレはその姿に心を動かされたんだと思います。
トークイベントの最後には花束の贈呈がありました。送られた赤いガーベラの花言葉は“限りなき挑戦”とのこと。花束を受け取った国枝選手は最後にこうコメントされました。
「長きにわたり応援してくださり、ありがとうございました。自分自身も最高のテニス人生が送れたなと思っています。でもこれで人生は終わりじゃないので、また新しい挑戦を引き続きしていきたいと思っていますし、自分自身もある意味死ぬまで生き生きとした姿を皆さんにお見せできるような活動をしていきたいと思いますので、引き続き暖かく見守っていただけたら嬉しいです。本日はありがとうございました」
イベント後に少しの間ですが囲み取材の時間がありました。そこでずっと聞いてみたかった質問をぶつけてみました。質問は「東京パラリンピックで優勝が決まった後、センターコートで流した涙の理由」です。
「あの瞬間は信じられないという気持ちが凄く強かったですね。リオで挫折を味わい、もう引退かもしれないというところから、けがを乗り越えて、今まで築き上げてきたテニスをぜんぶ捨てての再スタートの5年間だったので、あの涙はその5年のストーリーが詰まっているというふうに思うし、やっぱりコーチだとかトレーナーだとかお世話になっている方々を見たら自然と出て来たというか、抑えられなかったという感じでした」
国枝選手が東京パラのセンターコートで流した涙の裏には、応援してくれたいろいろな人たちへの感謝の思いもあったように思います。引退会見で「車いすテニスを障害者スポーツから純粋なスポーツにしたかった」と語り、東京オリンピックでそれを実現してみせた国枝選手。いつしか俺たち車いすユーザーの希望の星から、日本の希望の星となった国枝選手。これからも新しい国枝慎吾の挑戦は、それを見る人に希望を与えるのだろうと思います。
これからも、国枝慎吾は最強だ!