試乗レポート
日下部保雄のサファリラリー優勝車「セリカ(ST185)」に触れてきた
2021年12月3日 06:30
セリカ ST185と藤本吉郎氏
2021年までWRCのトップカテゴリーはワールドラリーカーで戦われたが、ワールドラリーカー以前のWRCは日本にも馴染み深いグループAで争われていた。トヨタ自動車、三菱自動車工業、スバル、スズキ、マツダと日本メーカーはもちろん、ランチア・デルタ、フォードなどの世界の強豪が競っていた時代だ。グループAは1987年から2001年まで続いた。
トヨタは終始「セリカ」で戦い続けたが、グループA時代の代表的なマシンはST185だろう。実質3年間のワークス活動で2度のマニュファクチャラータイトル、3度のドライバータイトルはいかにST185が強かったかを証明している。
そのST185で最強のラリーチーム、TTE(Toyota Team Europe)からWRCに参戦していた日本のラリードライバーがいる。藤本吉郎氏だ。
藤本選手はグループNの「ランサー」で、アジアパシフィックラリーを中心に海外で活躍。1993年のニュージーランドではグループNで優勝し、TTEの目に留まった。トヨタ側の日本人ドライバーを育てるというプロジェクトに則った活動だ。
当時、藤本選手はショックアブソーバメーカーのテインを市野諮氏と立ち上げて間もないころで、一旦はTTEの誘いを断った。しかしTTEの創始者、オベ・アンダーソンの意を受けたトヨタ側から説明を受けてトヨタとテインの間で契約を結び、テインの社員のままTTEに属してWRCに参戦することになった。
とはいえ、初めてのファクトリーチーム、グループA、そしてWRC。1994年初頭のウィンターシーズンから走り込みが行なわれた。欧州にはラリースクールが多数あり、藤本選手が送り込まれたのはスウェーデンにあるA・クーラングのスクール。グループAマシンで氷上、スノーを毎日走り込んだ。ステアリングを固定したままアクセルだけで旋回したり、ブレーキロックの練習をしたりと、すでにグループNで実績を積んでいるとはいえ、学ぶことは限りない。型落ちファクトリーカーとはいえ、ST185はそれまでのグループNより格段に正確に動き、剛性感の塊だった。後日乗ることになる実戦のワークスカーはさらに次元が違ったが、最初の出会いは衝撃的だった。
TTEは何から何までプロフェッショナルな集団。その中で藤本選手自身も身の置きどころを持て余した日々が続いたが、徐々にチームに馴染んでいった。
最初のラリーとなったのは1994年のサファリ。心身共に鍛え抜かれて迎えた本番。サファリは速度レンジが高い。どこまでも続く直線、そして突然現れるギャップ。抑えどころが分からず、まんまとサファリの罠にはまってリタイヤとなったが、藤本選手にとってサファリは衝撃的だった。
ニュージーランドでの藤本選手のグループN優勝に触れたが、当時の日本のラリーと比べて海外ラリーはアベレージが高い。ギヤでいえば2つぐらい上なのが当たり前だが、藤本選手たちは早くからペースノートの精度に取り組んで身に付けていた。この技術はTTE初年度からWRCに馴染めた大きな理由だ。
藤本選手のコ・ドライバーは3度の世界チャンピオンになったアーネ・ハーツが教育係を兼任して担当することになった。彼の豊富な知識はラリーを戦う上で大いに役に立った。また車両のセッティングはユハ・カンクネン車のコピーだったが、藤本選手にも合っていたという。
そして迎えた1995年の2回目のサファリラリー。この年はマニュファクチャラータイトルから外れていたので有力ファクトリーは参加せず、1994年優勝のイアン・ダンカン選手と藤本選手のセリカ、そして三菱自動車の篠塚健次郎選手のランサーEvoとの戦いになると予想された。
TTEも藤本選手を優勝させるべく周到に準備をしてサファリに送り出す。藤本選手自身も念入りにレッキを繰り返した。サファリのアベレージは高い。パイプラインが通る脇に作られた幅15m、直線30kmに及ぶコースは常に全開だが、雨が降ると突然ペースノートにはないマッドホールが現れる。常にコースは変化していく。五感を働かせて危険を感じ取らなければサファリでは完走できない。レッキではサファリの奥深さをその体に叩き込んだ。
サービス体制はバンで移動する重整備と、ヘリコプターによる緊急サービスがサポートする。他チームも似た体制で臨んでいる。
ラリー早々にダンカンセリカが後退し、篠塚ランサーとの一騎打ちとなった。藤本選手がトップに立つものの、サファリの1分はヨーロッパラウンドの1秒にすぎない。デッドヒートは続くが4分のアドバンテージを持って臨んだレグ3のTC27~28。藤本セリカはパンプのリスクを回避して硬めのタイヤをチョイスしたのが裏目に出て、コーナーでスライドが止まらず土手に引っ掛かって横転。藤本選手自身は逆さまになったセリカの中で万事休すと思った。
しかし百戦錬磨のハーツは諦めなかった。すぐに車外に出て藤本選手を大声で呼び、付近にいたマサイを集めてセリカを起こした。フロントガラスが割れ、ウィングライトも吹っ飛んでしまったが大きなダメージはない。祈るようにスタータースイッチを押すと3S-GTEは快調に息を吹き返した。バックミラーに遠く映ったのは埃を巻き上げて迫る篠塚ランサーだった。藤本セリカは埃を浴びることなくトップのままラリーに復帰できた。
熟知したはずのサファリはいつ違う顔を見せるか分からない。ラリーは夜間の激闘になったが、この一件が象徴するようにすべての運を味方につけた藤本選手は日本人初となるサファリ優勝者となった。
ちょっとだけ試乗
今、目の前にあるのはまさにサファリ優勝車そのもの。1995年ナイロビからスタートするST185を再現したものだ。ヨーロッパはレストア文化が進んでおり、大小のガレージがある。藤本選手が依頼したのはハノーバーにあるCAR-ING社。元TTEのジェラール氏が主宰するだけあって、ブラケットなどの図面も残っているという。強者ぞろいのメカニックで知られたケルンコマンドだけに仕事は完璧だ。
オリジナル車両はラリーから20有余年の時が立ち、痛みが激しかったがすべてのパーツ、塗料を剥がされて組み直された。ある意味、新車を作るよりも手間がかかるはずだ。ST185RCのドナーカーがあったとはいえ、レストア開始から正味1年で終了しているのだからさすが手慣れている。エンジンも当時を再現したフルリビルトだ。
そのST185に対面したのは神奈川県横浜市戸塚区にあるテインの本社。すでに暖気が済んでおり準備万端だ。TTE最強のラリーカーが目の前にある。
現在のラリー車からするとロールケージはシンプルで、レカロシートに潜り込むのもそれほど手間ではない。大柄な藤本選手に合わせられたポジションなので、テイン広報の佐藤氏がシートバックにスポンジを入れてくれた。ピッタリと体にフィットする。
エンジン始動には簡単な儀式が必要だ。まずカットオフスイッチをオンにして電流を流す。次に燃料ポンプスイッチを入れる。スターターボタンを2秒押して空クランキング、コ・ドラ前のディスプレイで油圧が1.5barに上がることを確認したら、イグニッションをオンにして再度スターターボタンを押す。3S-GTEはゴー音と共に息を吹き返す。マフラーのない直管だが意外とおとなしい。もっとも回転を上げたのは3000rpmぐらいまでだから、本当の音は分からない。長いサファリでのエンジンノートはどんな音を響かせたのだろう。
ドライバーの前にあるのはタコメーターだけ。油圧、油温、水温、電流などはすべてコ・ドラの正面にある小さなディスプレイに表示される。運転に専念しろということだと理解した。そもそもラリー中の忙しい中ではメーターを見る余裕はないに違いない。
Xトラックの6速MTはゲートも明確でガッチリと入る。ミスのしようがない。クラッチは踏力が重いが頼もしい。最初はミートポイントが分からずギクシャクしたが、慣れれば半クラッチ操作も難しくない。
大きな油圧ハンドブレーキレバーはラリー車特有のもの。前後ブレーキバランスの大きなダイヤルもドライバーがすぐに手の届くところに配置されている。位置、サイズともプロの仕事だ。余談だが、ブレーキバランスはフロントが先に、次にリアがロックするように調整するらしい。コーナの進入で向きを変えやすくするためだという。
スペアタイヤは背中に背負っている以外に2本目が室内に収められており、トランクには140Lの燃料タンクや水タンクなども収まっているので後方視界はわるい。ハンドルの切れ角も小さいのでUターンは大変だ。幸いパワーステアリングなので操舵力は軽くて済んだのはありがたい。簡単にテイン社構内を往復させてもらったが、当時のグループAセリカのハンドルを握れたことは感慨深い。
いくらエキゾーストノートが静かとは言え、やはり直管。回転を抑えてすぐに2速にシフトしたところで短い直線は終了。低速トルクがあって低回転でもよく粘る、本来の実力はここからだがラリーカーらしく柔軟性のある印象で、吸い込まれるように回転が上がるような感じではない。
何回か往復させてもらったが、直管のワークスエンジンの音はやはり気になる。もっとワークスセリカとの対話を楽しみたかったが、この辺を潮時と心得てカットオフスイッチをオフにした。本物の一端に触れることができ至福のひと時だった。
このST185はトヨタ博物館に収納され、2022年秋にオープン予定の富士モータースポーツミュージアムへの展示も検討されているという。関東地方のラリーファンにも見る機会が増えることを祈る。