日下部保雄の悠悠閑閑

セピア色の遠征

ショートトリップで訪ねた六甲からの夜景。1000万ドルの夜景と言われるだけのことはある

 高校の自動車部時代の友人から誘いがあって、大阪遠征と称し現地集合で旧交を暖めることになった。

 実は高校時代は体育会の自動車部に在籍していたことがある。高校生じゃ自動車免許を取れないだろう、と思うだろうが早く生まれるといいこともあり、当時は16歳で軽自動車免許が取れたのだ。それに、構内に特別なエリアがあってクルマを運転することができたので、免許の有無は関係なかった。今でも高校自動車部は活発に活動しており、多くの部員が日々トレーニングに励んでいるようだ。

 ボクが在籍していた頃の自動車部はフィギュアとフィジカルトレーニングに終始しており、時折タイムラリーも行なわれていた。

 フィギュアはあまりなじみのない競技だが、例えばボックスと呼ばれるラインで作られた狭い四角形に入口と出口を作り、いかに早いタイムでラインを踏まずに出られるかを競う戦いだ。角には缶を置いてあり、これを踏むとカンと呼ばれ、白線を踏むとセツと呼ばれてペナルティが付く。部内の練習ではセツは1回踏むごとに腕立て伏せ20回、カンはさらに重い罰があり、セツとカンを何回か繰り返そうものなら泣きそうになった。

 部車は先輩から引き継いだものを大切に整備しながら使っていたが、当然パワーステアリングなんてものはなく、操舵力の重いこと、重いこと! それを素早く流れるように回すので、それだけ腕力も体力も要求された。

 その強化のために行なわれた一例のロック・トゥ・ロックの反復練習では歩くよりもゆっくり走り、後輪の軌跡はできるだけまっすぐに、前輪の軌跡は一定でS字を書くように動くのが基本だったが、後半になると軌跡が乱れてくる。そこでまた怒られるというわけだ。

 しかし、後に本格的なラリーやレースをやるようになってから、ハンドル操作や腕力、基礎体力など、この高校時代の経験がかなり役に立ったと思う。

 さて、話が脱線したが、芦屋駅に合流した5人はそれ相応に歳を重ねて変わっていたが、しゃべり方、歩き方、しぐさなどで高校時代の記憶がまざまざとよみがえり、次第に気持ちも当時に戻っていった。いろいろな苦労があったと思うが、そんなものを飛び越えられるのが高校時代の友人だと思う。

 合流した日は摩耶山のケーブルカーとロープウェイを案内された。今回はそれほど混んでいなかったが、往時は涼や絶景を求めて多くの人で賑わっていたという。当時は開けていた山の途中にある駅周辺には住宅が密集したため、アクセスはバスがメインになり、ちょっと行きにくくなったのかもしれない。当然ながら乗り物は大好きなので、階段状のケーブルカーは一番前に陣取り、神戸の街を眺めた。もうワクワクだ。

摩耶山ケーブルカー、摩耶ビューライン。本に出てくる階段状のケーブルカーで嬉しい!

 その後、ロープウェイを乗り継いで上った摩耶山頂の掬星台(キクセイダイ)は、確かに素晴らしい景色だった。夜は「手で星も“掬える(すくえる)”ほどの絶景」が堪能できることからその名がついており、「1000万ドルの夜景」と呼ばれているそうだ。

大阪湾が一望できる掬星台展望台。夜景の美しさも想像できる

 翌日はステップワゴンに乗せてもらって、“白鷺城”とも言われる白い天守閣が美しい姫路城に遠征した。いつもはステアリングを握るが今日は後席。3列目にも座らせてもらったが、かつてのステップワゴンのような強い突き上げ感も少なく、想像以上に楽だった。また、ステップワゴンの後部ドアは3分の1だけで開く凝った設計なのは承知のとおりだが、場所を取らず荷物の出し入れができて重宝した。ステップワゴンのパワートレーンは、今回乗せてもらった1.5リッターターボとi-MMDの凝ったハイブリッドの2本立てだが、ターボの実力も高い。

 さて、姫路城は平成の化粧直しを終えたばかりで、純白の5層天守閣が美しい日本で最高の木造建築と言われている。

姫路城は別名、白鷺城とも呼ばれる。天下の名城と言われている美しい城だ

 来歴は、1333年に赤松円心がこの地に砦を築いたのが最初とされている。その後、戦乱の世で西国の要として黒田官兵衛や羽柴秀吉などが入城し、次第に威容を整えていく。そして関ヶ原の直後に池田輝政の時代になって、現在の姫路城のオリジナルができたようだ。さらに世の中が戦乱から脱した1618年、本田忠政が西の丸を築いて現代につながる白鷺城が完成したそうだ。もちろんこんな詳しい来歴はすべてパンフレットの知識である。

 幸いにして休日であるにもかかわらず、それほど混んでおらず、最上階の天守閣まで上れて、姫路の街を見下ろすことができた。いつも思うのだが天守閣の主な役割は何だろう。少なくとも居住区でなさそうだし、戦闘用の守備の要なのだろうか。

 多く訪れていた外国からの観光客は、この天守閣から何を感じたか興味を持った。聞かなかったけどね。

 姫路城はその威容に圧倒されると同時に、西の丸を住まいにした戦国最後のヒロイン 千姫の数奇な運命を知るにつれ、ちょっと感傷的にもなった。

西の丸からの姫路城。大坂夏の陣で救い出された秀頼の正室で家康の孫となる千姫が、戦後、本多忠刻の正室となり住まいにしたのが西の丸である。千姫は数奇の運命をたどったが、その後大奥で力を発揮したとされる。70歳で江戸で没した

 その後は丹波篠山城址に向かい、城巡りとなった。城山城址にはもともと天守閣はないが、交通の要所であり、江戸時代は重要な役割を持っていたという。縄張りは築城の名手、藤堂高虎の手による防御に徹した堅牢要衝だったという。

丹波篠山城址の天守台奥に祀られていた青山神社。善政を敷き教育を重視した青山忠俊、忠裕が祭神となっている

 それぞれ地形と密接な関係を持ち、城の持つ重要性と先人の測量技術、土木技術、建築技術は見事というほかはない。

 そして、丹波篠山は篠山城址のまわりに武家屋敷が残っており、こぢんまりとしているが落ち着いて静かなよい街だった。夜は昔話に花を咲かせたのは言うまでもない。

 高校時代に戻った遠征はすぐに終わり、再会を期して芦屋を後にした。ちょっとセピア色のショートトリップでした。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/16~17年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。