日産名車再生クラブが再生したBNR32 スカイラインGT-R N1耐久レース仕様車と作業に携わったクラブメンバー 日産自動車の技術開発拠点である日産テクニカルセンターには、日産がこれまで生産してきた名車のレストアを行なう「日産名車再生クラブ」という社内のクラブ活動がある。Car Watchでもこれまで日産名車再生クラブの活動を記事にさせてもらっていたが、今回は2021年に手掛けた「R32スカイラインGT-R N1耐久レース仕様車」の再生が無事終了したことをクラブ員、及び関係者に報告するための再生完了式をレポートする。
日産名車再生クラブの活動は日産にとっても自動車業界にとっても意義があるものだが、実体はテクニカルセンター内の従業員によるクラブ活動だ。活動は仕事が終わったあとの時間や休日に行なわれるだけに、安易な気持ちで参加できるものではないだろう。しかし、実際は写真にあるように大勢の参加者が集まるものなのだ。
この活動は日産が保管する歴史的なクルマを再生することで、当時のクルマ作りの技術や考え方を学ぶことを目的にしているが、最新のクルマ開発に携わる方々が、そうしたことに興味を持って貴重なプライベート時間をつぎ込むということには、クルマのユーザー側としてどこかうれしい気持ちになるのであった。
R32スカイラインGT-R(BNR32)N1耐久レース仕様車。写真は2022年11月9日に行なった富士スピードウェイでの走行時に撮影したもの。再生完了式で展示されたものと仕様は変わらない この車両はR32スカイラインGT-RにあったGT-R NISMOというグレードの最終生産車 今後は神奈川県にある日産ヘリテージコレクションに保管されるので、見学を申し込めば実車が見られる 再生完了式はクラブがある日産テクニカルセンターにて行なわれた。奥に見えるのは2020年に再生した日産マーチスーパーターボのリトルダイナマイトカップ仕様車。こちらは別記事で紹介する さて、今回、クラブが選んだのは1990年式のスカイラインGT-R NISMOをベースにしたN1耐久レース仕様車だ。このN1耐久レースとは現在のスーパー耐久レースシリーズの前身となるもので、市販車に近い状態のレーシングカーが参戦するものだった。
N1耐久レースには数台のスカイラインGT-Rが参戦していたが、再生対象車は当時の実験部(開発中の車両の走行評価などを行なう)の開発実験ドライバーが中心となった日産の社内チームの車両だ。
ただ、日産社内チームとはいえ、いわゆるワークスでなく開発実験を務めるテストドライバーの有志が、自身の技術や評価スキルの向上を目的として始めたクラブ活動的なもの。ベース車や予算(クラブ活動の範囲)は会社から出たが、車両の製作やレースに関することは業務外の時間を使い、参加メンバーのみでこなしていたそうだ。この点は、日産名車再生クラブと同じような感じであった。
なお、N1耐久レースには1990年から参戦。富士スピードウェイ、筑波サーキット、仙台ハイランド(現在は閉鎖)、スポーツランドSUGOを舞台に1992年まで参戦をしたとのこと。
N1耐久レースには1990年から参戦。富士スピードウェイ、筑波サーキット、仙台ハイランド(現在は閉鎖)、スポーツランドSUGOを舞台に1992年まで参戦をした 1年間のスケジュールで行なわれる。完成後はニスモフェスティバルで走行することが慣例となっている インターネットがいまほど普及していない時代のクルマは、当時の資料を探すのが大変だが、社内の活動であったため重要な情報も残っていたし、当時の関係者からの助力も受けられた 見た目には程度のいい状態だったが、再生時はすべてバラすことから始める 再使用する部品も多い。バラした部品はクラブメンバーが手作業で汚れやサビを落とし、きれいに磨いていく。地味な作業だがパーツに触ることで知ること、見えてくるものもある 再生完了式では再生作業のパートごとに1名の担当メンバーが作業の状況を説明する機会も設けられていた。今回の車両はレースカーではあるが、ドライブしたのがテストドライバーだったため、クルマの扱いが格段に丁寧だったようだ。そのためエンジンのコンディションはよく、痛みやすいトランスミッションのシンクロさえも状態がよかったという。
こうした状態がいいという点については、当時、このクルマをドライブした渡邊衡三氏と松本孝夫氏が来賓として来ていたので、ドライビングについて直接伺うことができた。
それによると例えばシフト操作なら、トランスミッションの構造を理解し、シフトレバーの操作によっていま部品がどのような状況で作動しているかを考えて操作するという。そして正確に組まれたトランスミッションであれば丁寧に適切な操作をすると「吸い込まれるように」シフトレバーが次のギヤポジションに入っていくと語ってくれた。
エンジンをバラしたところバルブステムに曲がりがあった。オーバーレブをしたのだろうか。また、ポートに冷却水が漏れ出た跡があったという。オーバーヒートなどでヘッドに歪みが出たのかも。パーツ交換と修正で対処している ブーストがかかった際にホースが膨らむことを抑えるためホースバンドを巻いている。レスポンス向上の効果がある シェイクダウンでパワステフルードが吹くというトラブルが出たので、ウォッシャータンクを流用したブローバイキャッチタンクに、パワステフルード用のブローバイホースも取り回していた 市販のスポーツマフラーを装着。ガソリンタンクをトランク内に設置している関係上、タンクに(燃料に)熱が伝わらないようマフラーステーを延長し、タイコの位置を下げている トランスミッションやトランスファーの状態もよかったという。とくにトランスミッションは操作が丁寧だったため痛みやすいパーツすらダメージは少なかったとのこと 開発実験ドライバーの松本氏は機械の動きにあう操作をすると「シフトレバーが吸い込まれるように入っていく」と表現した 試走時、クラッチディスクに不具合が発生した。ニスモフェスティバルの出走にはパーツ交換で対応 クラッシュもなく、レース後は室内保管されていたのでボディの状態もよかった。厚木のテクニカルセンター内にある試作部にて再生作業が行なわれた 仕上がったボディにクラブメンバーが各パーツを取り付けていく 一見、ステッカー処理に見えるカラーリングはすべて塗装で再現している 内装はもともと付いていたものをクリーニングして再利用している レースカーでは交換されがちなステアリングやシフトノブは純正品を使用していた。このへんはメーカーゆえのこだわりだったよう 助手席側から見た光景。ミッショントンネルの横にある青い袋はウォッシャータンク スピードメーターは指針を外したうえで黒く処理される。両サイドの4つのメーターのうち、左下はガソリン残量計だが、安全タンクにしたことでこれが不要に。そこでセンターコンソールの3連メーターから油温計を移設している 機械式のブースト計を追加している。メーカーは懐かしいラムコ(現在はない) 軽量化のために、窓の開閉はパワーウィンドウから手巻き式に変更される センターコンソールにある3つのトグルスイッチ。エンジン、タイヤ、ブレーキとある。走行中にこれらに問題が起きたときにオンにすると、リアのクォーターウィンドウ越しに付けられたランプが点灯。ピットへ状況を知らせる役目をしていた アンダーコートやカーペットがないミッショントンネルはエンジンや排気管、トランスミッションなどからの熱が伝わって熱くなるので、シューズがあたるフットレスト付近は遮熱用のシートが貼られる エンジンルームや車体に巡っている配線はすべて外して痛みをチェック。修復が必要な部分は直している。各センサー類やECUもチェック。ECUはノーマルに戻されていたので、基板にソケットを付けロムの書き換えなども行なっている。筆者の印象ではこのパートの作業がいちばん大変そうに思えた GT-Rには電子制御の油圧式4WDシステムや4輪操舵のスーパーハイキャス(電子制御油圧式)が採用されているので配線や配管が多い。再生作業では配管類を外して内部のクリーニングなども行なっている。なお、ハイキャスは作動しないよう細工してあったのでその状態で再生している 当時のタイヤはファルケンのスリックタイヤだが、現在では手に入らないので住友ゴム工業のファルケン アゼニスRT615K 255/40R17を履く 10月1日、パーツが組み終わった段階での試走がテクニカルセンター内にあるテストコースで行なわれた。問題なく走行できたそうだ。写真にはステッカーが貼られていない状態のGT-Rが写っている 当時の資料を元に作ったゼッケンやスポンサーステッカーを貼っていく。この作業にはステッカー貼りの経験がないクラブメンバーも参加しているとのこと ルーフにもゼッケンがある。ドライバー名も貼られている ファルケンのロゴは旧タイプ。住友ゴム工業にもロゴデータが残っていなかったそうで、資料等から復元された苦労の一品 1990年代にあった日産純正オプションパーツブランドが「naVan(ナバーン)」。純正エアロパーツなどに展開されていた記憶がある 11月に富士スピードウェイにてチェック走行が行なわれた。おおむね異常なしだったがパワステフルードの吹き出しとクラッチディスクの不良が出た。本番前にトラブルが出せたことが有意義だったとのこと。最高速も225km/hくらいまでは出たという チェック走行は当時のドライバーを務めた神山幸雄氏と加藤博義氏がドライブを担当。インカー映像が流されたが、開発実験を行なう評価ドライバーの操作は、窓の外の景色の流れとはまるでリンクしない「ゆっくり」としたもの。これが上手い運転というやつか ニスモフェスティバルでの走行。ヒストリックカーエキシビションレースの先導車を務めた。ドライバーは往年の名ドライバーである和田孝夫氏。GT-Rを見たお客さんからは「見たことがないクルマだ」「きれい」など好評だったそうだ ニスモフェスティバル前日には影山正美選手と松田次生選手がドライブ。松田選手に「影山選手が2分フラットで走った」と伝えたところ「それを抜く」と言いだし、結果、なんと1分58秒台を記録した 以上で再生過程の報告が終了。そしてクラブ代表の木賀氏より「再生完了宣言」がされ、今回の活動が締められた。 クラブメンバーの発表が終わり、木賀氏による再生完了宣言のあとは、クラブの活動をサポートした来賓の挨拶が行なわれた。ここでの話はクラブメンバーに向けたものであり、社内的な内容も含むので記事では来賓者のかんたんな紹介のみにとどめておく。
最初に紹介されたのは日産OBであり、日本モータースポーツ推進機構で理事長を務める日置氏だ。同氏はクラブメンバーに対して「これからの時代は電動化になっていきますが、こういった積み上げた部分を忘れることなく、自動車屋として引き続きがんばって下さい」と声を掛けた
続いての登壇は渡邉氏。渡邉氏は「当時、重要視したのは評価ドライバーの技能向上でした。このクルマの活動を通じて、その後のGT-R開発に役立つものを得ることができました。スキーを習うにしても転ばなければ上手くはならないのと同じで、クルマも思い切り走ることが大事です。制約の多いテストコースを離れてそういうことができる機会を与えてもらったこの活動はよかったのではないかと思っています」と感想を語った。
車両実験部 評価ドライバーであり、レースにも参戦した松本孝夫氏 現在、R35GT-Rの開発を現役で担当する松本氏。松本氏は「当時はレースに出ることに四苦八苦していました。クルマの準備をする時間が取れず、レースの日は徹夜ということもありました。メンバーの人数も少なかったのでクルマはほぼノーマルでした。ブレーキなども性能の高い社外品は用意できなかったので純正を大量に用意するような状況でした。ただ、それはわれわれが開発したクルマの実力を知ること、そしてどんな動きをするか、どう壊れていくのかを知る意味もありました。また、ドライバーの技量的にも限界まで攻め込む場を与えていただいたことも大きな意味がありました。運転技量が上がるだけでなく、限界走行を体験することによる経験値向上から、評価技能に余裕を持てるようになりました。これらがこの活動の中で、いちばんわれわれの身になったところではないかと思います」と語った。