尾張正博のホンダF1本「歓喜」の裏話

【第5話】ポルトガルまで1400km

クルマで移動しながらヨーロッパのグランプリを取材していると、各チームのトランスポーター(大型トラック)とよく出会う。この写真はフランスGP後に撮影したハースのトランポ

岩手県から鹿児島県よりも長い道のり

 F1の2021年シーズン、夏休みまでのヨーロッパ滞在期間中の取材で最初の難関だったのが、アンドラからポルトガルまでの移動だった。

 アンドラからポルトガルまでの距離を、クルマに装着されていたナビで検索すると約1400kmもあった。東京から大阪までの距離が直線にしておよそ400kmだから、2往復弱もあることになる。片道だけで考えると岩手県の盛岡市から鹿児島県の鹿児島市までが約1300kmだから、それよりもさらに長い。日本にいたら、普通この距離をクルマで移動しようとは考えない。

 しかし、飛行機で移動するにしても、簡単なことではなかった。まず、フランスとスペインの国境の山岳地帯にある小国のアンドラには空港がないため、アンドラから飛行機でポルトガルへ行くためにはスペインにクルマで移動して、そこでレンタカーを返却してポルトガルの空港で再びレンタカーを借りなければならない。

 さらにこの年は、ポルトガルGPとスペインGPが2週連続開催だったため、飛行機でポルトガルからスペインに帰ってきたら、またスペインの空港でレンタカーを借り直さなければならない。当時はまだコロナ禍でヨーロッパ内も移動が制限されていたためレンタカーの需要は少なく、多くのレンタカー会社は経営を維持するために料金をコロナ前よりも高く設定していた。レンタカーの料金というのは、借りた日数に応じて変動するものの、それは日数に比例するわけではない。さらに借りた日数とは関係なく、基本料金がかかる。つまり、短い期間で何度も借りるよりも、1台を長期間で借りたほうが割安となる。

 さらに飛行機を使えば、PCR検査の陰性証明が必要となる。それ以外にもポルトガル入国とスペイン入国の際に必要となるさまざまな書類を準備しなければならない。そういう思いをしてポルトガルに入国しても、ポルトガルGPの舞台となるポルティマオには大きな空港がなく、スペインから飛行機で行くと首都リスボンに到着してからクルマで向かうしかなく、2時間以上はかかる。アンドラからスペインの最寄りの国際空港となるバルセロナまでもクルマで約2時間かかるので、ならばアンドラからポルティマオまでクルマで移動したほうがよいというのが理由だった。

 とはいえ、1400kmもの距離をクルマで移動するには100km/hで走り続けても14時間はかかる。1人だったらあきらめていたところだが、今回は熱田カメラマンがいる。途中、運転を交代して休み休み行けば、1400kmも無理じゃないだろうと判断したわけだ。

途中のサービスエリアにて休憩中

 ポルティマオに夕方チェックインしたいので、朝4時すぎにアンドラを出発。ポルティマオまでの道中、熱田カメラマンと話していたら、いろいろな記憶がよみがえってきた。

 というのも、私は1990年代に熱田カメラマンと知り合い、1997年からは「GPX」というF1の速報誌を通して、何度か一緒に旅をしていたからだ。当時はGPX以外にも「F1速報」や「AS+F(オートスポーツプラスエフ)」や「グランプリ特集」などF1の専門誌がいくつもあった。それぞれの編集部が編集部員と専属カメラマンを現地に出張させて、いい雑誌を作るために皆しのぎを削っていた。まだインターネットが盛んではなかったし、デジタルカメラも普及していなかった時代。写真はほとんどがフィルムで撮られていて、レースが終わったら、できるだけ早く帰国して現像しなければならなかった。

 日曜日のレース後、メディアセンターを出るのがだいたい深夜2時から3時で、ホテルに帰って少し仮眠して月曜日の早朝にホテルを出て現地を出発。月曜日の午後イチに成田行きの便が出るドイツ・フランクフルト空港へ乗り継ぐためだ。成田行きの飛行機の中で爆睡し、火曜日の早朝、成田空港に到着したら最後の勝負で、まずフィルムを待機させていたバイク便で先に現像所まで運んでもらい、私たちが東京に到着したころに現像された写真をルーペで確認。編集部で使用する写真を選択し、デザイナーにページを整えてもらって出版社に入稿していた。日本GP号は1日発売日が早かったこともあり、日曜日の夜に鈴鹿からクルマで東京に帰らなければならなかった。つまり、完全に徹夜作業だった。途中、静岡あたりで2人とも睡魔に襲われ、パーキングエリアで仮眠したら熟睡してしまい、大焦りしたこともあった。

写真はバーレーンGPのもの。コロナ禍で長テーブルは個別テーブルに変わり、さらにこのように閑散としていた

 その後、GPXは2001年を最後に休刊。AS+Fやグランプリ特集もなくなった。気がつけば、メディアセンターに常時10人以上もいた日本人は徐々に減り、2021年には3人だけとなった。そもそも2021年はコロナ禍で日本人だけでなく、ヨーロッパをはじめ世界各国のメディアがほとんど現場に来なくなっていた。その中でシーズンを通して全戦取材していた日本人は、熱田カメラマンと私の2人だけ。20年前に、こんな日が来るとは想像もしていなかった。

 20年前の徹夜作業で鍛えられた体力は、60歳を前に少し衰えてきていたが、ポルトガルまでの1400kmに負けないだけのパワーはまだ維持されていたようだ。

なんとかポルティマオ近郊にあるポルトガルGPの舞台となるアルガルベ・サーキットへ到着できた
尾張正博

(おわりまさひろ)1964年、仙台市生まれ。1993年にフリーランスとしてF1の取材を開始。F1速報誌「GPX」の編集長を務めた後、再びフリーランスに。コロナ禍で行われた2021年に日本人記者として唯一人、F1を全戦現場取材し、2022年3月に「歓喜」(インプレス)を上梓した。Number 、東京中日スポーツ、F1速報、auto sports Webなどに寄稿。主な著書に「トヨタF1、最後の一年」(二玄社)がある。