尾張正博のホンダF1本「歓喜」の裏話
【第7話】絶体絶命の危機
2023年7月14日 00:00
約2か月間のアンドラ生活に別れを告げるはずが
2021年のF1シーズンで、ホンダはモナコGPの後も好調を維持。アゼルバイジャンGPはレッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペン選手がトップを快走しながら、レース終盤にタイヤトラブルに見舞われて勝利を逃したものの、チームメートのセルジオ・ペレス選手が優勝した。そしてアゼルバイジャンから再びアンドラに戻り、1週間後に控えたフランスGPへ荷造りを開始した。
第7戦フランスGPから第9戦オーストリアGPまでは3週連続開催で、その後はシェンゲン圏外のイギリスGPとなるため、もうアンドラへは戻ってこないからだ。もちろん、これまでもグランプリへでかけるごとに荷物を持ってチェックアウトしていたが、何週間も泊まっていた常連ということで、そのグランプリに持って行かないものはホテルの倉庫に置かせてもらっていた。しかし、今回はもう戻ってこないため、すべての荷物をスーツケースにまとめなければならない。アンドラ生活を快適に過ごすために現地で調達した電気製品や衣類、あるいは息抜きに運動するために買ったバスケットボールも、もう必要はない。ホテルのスタッフに譲って、約2か月間のアンドラ生活に別れを告げた。
ホンダはフランスGPでも逆転勝利を収め、続くシュタイアーマルクGPも連勝。独走体制に入ろうとしていた中で、第9戦オーストリアGPを迎えた。オーストリアGPの舞台はシュタイアーマルクGPと同じレッドブルリンク。ホンダが連勝する可能性が高かった。構成を見直した単行本の取材も順調だった。
しかし、好事魔多し……。オーストリアGPの週末に、私たちは取材活動を継続するにあたって、最大の危機に直面することになる。
イギリスでデルタ(インド変異)株が猛威をふるい始めてしまった
ネックとなったのはイギリスからの渡航制限だった。この時期イギリスは脱コロナへかじを切り始めた。当時首相だったボリス・ジョンソン氏が7月5日に「ワクチン接種が進み、感染と死亡の関係を断ち切ることができた。コロナと共生する新しい方法を見つけなければならない」と発表し、イギリス政府がさまざまな制限を撤廃する方向を打ち出したからだ。7月に行なわれたサッカーのヨーロッパ選手権(ユーロ2020)決勝やウインブルドンはほとんどの観客がノーマスクだった。
ところが、この時期のイギリスはデルタ(インド変異)株が猛威をふるい始め、新規感染者数が1日5万人にものぼっていた。そのため、ヨーロッパ各国を中心に世界各国はイギリスからの渡航者に厳しい制限を設けていた。イギリスGPの次にF1を開催するハンガリーはその中でも最も強い措置をとっていて、ハンガリー国民かハンガリーに居住している者、あるいはハンガリーの会社に雇われている者以外はイギリスからの入国を禁止していた。
ただし、F1関係者にはメディアも含めて、主催者から特別な招待状が与えられ、グランプリ自体も問題なく開催された。問題は日本人の私たち2人だ。というのも、その招待状は基本的にグランプリ開催1週間前にしか配布されないからだ。イギリスGP直後にハンガリーへ移動して用もないのに2週間もとどまる者はレース関係者にいないのだ。
単純にイギリスからハンガリーへ行くことだけ考えれば、イギリスGPの後、1週間イギリスにとどまって、招待状を受け取ってからハンガリーへ向かえばいいのだが、私たち2人は夏休み期間中に日本でワクチン接種する計画を立てていた。ちょうどそのころ、パドックでは「夏休み以降の後半戦はワクチンを2回接種した者しかパドックに入れなくなるかもしれない」という“うわさ”がもち上がっていたからだ。
ワクチンを2回接種する際、2回目は1回目から最低でも21日後以降でなければならなかった。ハンガリーGPの決勝日が8月1日だから、その翌日の2日ハンガリーを出国して、3日に帰国すると21日後は8月24日。夏休み明け緒戦のベルギーGPは8月27日に開幕するから、26日には日本をたたなければならない。そうなると、日本でワクチンを2回接種を完了するためには3日に帰国した後、4日までには1回目のワクチンを接種しなければならない。
ところが、日本もイギリスからの渡航者に対しては、入国日の14日以内にイギリスに滞在した者は一定期間の隔離措置をとっていた。8月3日の14日前は7月20日。つまり、7月19日にはイギリスを出国していないと、3日に帰国しても強制的に隔離され、1回目のワクチンを受けられない。
当初、私たち2人はイギリスGPの後、いまレースが行なわれているオーストリアに再び戻ってきて、ここで1週間過ごした後、ハンガリーへ移動しようとしていた。オーストリアGPのスタッフに聞いても、「数日間の隔離措置はあるものの、イギリスからオーストリアへの入国に問題はない」と説明してくれていたからだ。だが、念のために自分でインターネツトを調べると、それはオーストリア人が自国に帰国する際の話で、日本人には該当しないことが判明した。
そうなると、私たちの選択肢は2つしかない。1つは日本でのワクチン接種をあきらめて、このままイギリスGPとハンガリーGPを取材する。もう1つはネックとなっているイギリスへの渡航をあきらめて、オーストリアにとどまって、そこからハンガリーGPを取材して帰国し、ワクチンを受ける。
だが、どちらの選択肢にも問題があった。前者はワクチン接種をしていないため、夏休み明けに取材ができなくなる可能性があった。後者はイギリスGPの取材を自ら放棄し、ホンダのF1ラストイヤーの全戦取材をあきらめなければならないということだ。
オーストリアGPでもホンダの勢いは衰えることなく、フェルスタッペン選手がポール・トゥ・フィニッシュを飾った。レース後、メルセデスのトト・ウォルフ代表がホンダでマネージングディレクターを務めていた山本雅史さんのもとを訪れ、祝福していた。ウォルフは握手をした後、山本さんに「少しスピードを抑えてくれよ」と語り、モナコGPからのホンダの5連勝にすっかり脱帽している様子だった。
しかし、その様子を取材していた私の心の中は穏やかではなかった。サーキットからホテルへ帰る途中、絶望感で私たちはほとんど会話をする余裕はなかった。スピーカーからは私のスマホに入っていた馬場俊英さんの「スタートライン」が静かに流れていた……。