尾張正博のホンダF1本「歓喜」の裏話
【第11話】単行本の核となった元本田技術研究所社長インタビュー
2023年8月11日 00:00
ホンダのF1単行本の取材を進めてきた中で、ホンダの関係者から、「現場にはほとんど来ていなかったけれど、ぜひ、取材したほうがいい」と言われていた人がいた。その1人が、かつて本田技術研究所で社長を務めていた松本宣之(よしゆき)さんだ。
松本さんは、1981年に本田技研工業に入社し、エンジニアとして3代目「シビック」や4代目「アコード」、そして2代目「インテグラ」などの車種開発に携わったのち、初代「フィット」の開発責任者(LPL:ラージプロジェクトリーダー)を務めたホンダのエースで、ホンダが2015年にF1に復帰した翌年の2016年から、本田技術研究所の社長を務めていた。
松本さんは本田技研工業の専務としてF1担当の執行役員も務めていて、いわばホンダF1活動の総指揮官とも言える存在だった。
インタビューは対面形式で都内にあるホンダの関連会社の会議室で行なわれた。いつもの取材よりも緊張していたのは、松本さんがホンダの中でもかなり高い役職を務めていた人物だったというだけでなく、この取材で松本さんに聞かなければならない質問が、ホンダにとって耳の痛い話となるからだ。
ホンダの第4期F1活動をまとめた「歓喜」は、チャンピオンを獲得した2021年シーズンの戦いを軸に描かれている。ただし、同時にホンダはそれまでの数年間、苦杯をなめ続けてきたことも事実だった。第4期のF1活動を締めくくることになった2021年にホンダがどのようにしてチャンピオンシップ争いに挑んでいたかを描くには、それまでの6年間、ホンダはどんな苦しい戦いを続け、そこからどうやって挽回していったのかも同時に描く必要があった。それを明らかにすることで初めて、ホンダの歓喜する姿が鮮やかに見える。
だが、それを尋ねることは、ホンダがどんな失敗をしてきたのかをつまびらかにしなければならない。果たして、ホンダの研究所の社長を務めた経験もある松本さんが、そんな自らの恥部とも言える問いに応じてくれるのか、私は心配だった。
ところが、それは杞憂に終わった。松本さんはつまらないプライドなど持たない、真実だけを語る純粋なエンジニアだった。
松本さんが本田技術研究所の社長となった2016年は、ホンダがF1に復帰して2年目で、ライバル勢から大きく水を空けられていたころだった。そこで、ホンダは2017年に当時、最強だったメルセデスに追いつこうとメルセデスと似たようなレイアウトにした新しいパワーユニットを投入することにした。しかし、その新しいレイアウトはターボとコンプレッサーがエンジンの前後に分かれていたため、それをつなぐ軸がこれまでレースエンジンを開発してきた者にとって経験したことがないほど長いものとなって、ホンダのエンジニアたちを苦しめていた。シャフトがある回転域になると共振し、軸の中心にあるMGU-H(ターボにジェネレータがついたハイブリッドシステム)にダメージを与えるというトラブルを序盤戦から続出させていた。
四輪では未知の技術だったが、じつは航空エンジンの分野ではすでに研究を重ねられていた技術だった。しかし、エンジニアは優秀になればなるほどプライドもまた高くなる。自分たちが解決できない問題をほかの部署の人間に助けてもらうことは研究者としてのプライドが許さない。F1の開発を行なっていたHRD Sakuraのエンジニアたちが壊れたシャフトを見て、解決策がなかなか見つからずに思案に暮れていたとき、松本さんに声をかけたのが航空機エンジンR&Dセンターの輪島善彦センター長だった。
本田技術研究所にはF1の開発を行なっていたHRD Sakura(現HRC Sakura)のほかに量産車の開発を行なう部門、ホンダ・ジェットなどの航空機の開発を行なう部門、先端技術を扱う部門などさまざまなカテゴリーがある。通常、これらの部門はそれぞれのプロフェッショナルがつどって研究しているため、部外者との交流は行なわれないのだが、前述のように当時、松本さんは本田技術研究所の社長を務めていたため、カテゴリーの垣根を越えてそれぞれのエキスパートと話ができる立場にあったのだ。輪島センター長はこう言った。
「松本さん、このあいだシャフトのレイアウトの図面を見たんですけど、私たち航空エンジン部門のスタッフからすると、あれはダメだと思うんですよね」
ここまでは、単行本でもおおむね書いたのだが、その後、単行本には入れることができなかったがこんなことを語っていた。
「あの輪島が言ったひと言でね、これなら勝てるかもしれないなと一瞬、陽が射しました。あれがきっかけになって、それからホンダの研究所にいるいろんなメンバーが協力し合ってF1プロジェクトを大きく前進させることができたかな、と」
第4期のホンダF1活動において大きな転換点となったのはまさにこのときで、それまではF1のスタッフだけで開発していたのを、研究所内の垣根を越えてオール・ホンダ体制でパワーユニットの開発を推進したことだった。そして、それを下命したのは松本さんであり、ホンダF1のV字回復の重要な役割を果たした最大の功績だった。
また松本さんは「何気ないひと言、あるいは雑談の中に結構決定的なものが隠されていることがある。あの数年間は、そんなようなことを大変勉強させていただきました」とも言っていた。
松本さんはその後、2019年4月に本田技術研究所の社長を退任し、同年6月には本田技研工業の専務取締役も退任し、ホンダを去った。
松本さんがLPLを務めた初代フィットは、2002年の新車販売台数のランキングで、33年間連続首位を誇っていたトヨタの「カローラ」を抜いて、このカテゴリーでホンダ車として初めて首位を達成するほどの空前のヒット作となった。さらにF1でものちに新骨格のパワーユニットを投入するリーダーとなる浅木泰昭さん(前HRC四輪レース開発部部長)をF1のプロジェクトに引っ張るなど、松本さんこそ、ホンダF1が現在の礎を築く最大の功労者だったと思う。
そして、単行本の「歓喜」を執筆するうえでも、松本さんの言葉はストーリーの根幹を形作るうえでなくてはならないものとなり、重要なインタビューとなった。“いい単行本になる”という手応えをつかむことができたのを覚えている。貴重な時間を作っていただいた松本さんをはじめ、インタビューを実現していただいた関係者の皆さんには、本当に感謝しています。
このインタビューは2021年の8月に行なわれたから、ちょうどホンダがメルセデスとチャンピオンシップ争いをしている渦中だった。そのインタビュー会場には当時、ホンダF1のマネージメントディレクターを務めていた山本雅史さんもいた。私とのインタビューを終えた松本さんは、別室から出てきた山本さんを見つけると、「いろいろ大変だと思うが、頑張れよ」と励ましていた。ホンダが歓喜するのは、それから約3か月半後のことだった。