尾張正博のホンダF1本「歓喜」の裏話

【第12話】F1速報の協力

F1速報の負担を軽くしてもらった筆者に代わって、負担が増えたのが、F1速報でメインライターを務めているルイス・バスコンセロス氏。筆者と同じ年で1990年代からの旧友。トーチュウでも協力し合う仲だ

 ホンダの取材を順調に進めていた2021年の夏。単行本を刊行するにあたって重要な決定を行なおうとしていた。それは、編集者の選定だ。すでにインプレスから出版されることは決まっていたが、社内にはモータースポーツ専門の編集者で、かつ単行本を担当できる余裕のあるスタッフを準備するのが難しい状況にあった。編集作業は単行本に限らず、活字媒体にとって中核をなす重要な仕事。単行本の取材を進めながら、過去に一緒に仕事した仲間たちの顔が思い浮かんでは消え、また思い出すという日々が続いていた。

 それと同時に、私にはこの時期、もう1つ懸念していた事情を抱えていた。それは、これから単行本の執筆作業に集中していくことになるため、仕事の依頼を極力制限しなければならないということだった。

 2021年はまだ新型コロナが完全に終息しておらず、日本からF1の取材を全戦行なっていたジャーナリストは私だけだったこともあり、日本のメディアからの執筆依頼は例年よりも殺到していた。

 しかし、この連載の第7話や第8話で書いたように、コロナ禍での取材は移動するのにさまざまな手続きが必要で、それらの作業は執筆する時間を削って行なわなければならなかったため、申し訳ないのを承知で執筆依頼はかなり制限しなければならなかった。

 そんな中、これから単行本の執筆活動が本格的に始まろうとしていた。私はこれまで数冊の単行本を上梓したことがあるが、執筆活動はいずれも、シーズンが終了した12月から2月のオフシーズンだった。シーズン中は取材活動と両立するのが難しいからだ。

 だが、今回のホンダの単行本に関しては、シーズン終了後、できるだけ早く出版したかったため、シーズン中から執筆活動を開始する必要があった。そうなると、どうしてもシーズン中に執筆しているレギュラーの仕事の量を調整しなければならない。

 最初にお願いしなければならなかったのは、レース速報誌の「F1速報」だった。

コロナ禍でグランプリが開催されていた2021年の取材活動は、いま思い返してみても、なかなか大変だった。特にPCR検査はひと苦労した。各サーキットにPCR検査場があり、みんなそこへ行って、陰性証明書をもらっていた。元F1ドライバーたちも例外ではなく、フェリペ・マッサ氏も、同様に検査を受けていた

 筆者はもともと「GPX」という別のF1速報誌の編集長を務めた経験があり、F1速報はいわばライバル誌だったが、編集者やそのライターたちとは友好的な関係を築いていたこともあって、GPX卒業後、フリーランスになってから、少しずつ仕事をいただくようになっていた。

 その仕事も徐々に増え、数年前からはレギュラーページを数本持つようになっていた。しかし、前述の理由から、2021年シーズンが始まってから、そのうちのいくつかはほかのライターにお願いしてもらったり、担当する連載の負担を軽減してもらったりしていた。そのうえ、さらに単行本の執筆のために、制限してほしいというお願いである。原稿を書かせていただいている身としては、本当に失礼なお願いである。

 そのお願いをするにあたって、単行本の話を隠しておくことはできないのは当然だった。そのとき、私はあることをひらめいた。単行本の編集者の存在だ。

 現在、F1速報の編集作業をしているのは、「CINQ(サンク)」という編集プロダクションだった。そこにはモータースポーツに精通した優秀な編者者がいる。ならば、単行本の編集作業を行なうにはうってつけではないか。

 しかし、そもそもF1速報からの執筆依頼を制限してもらおうとしている身でありながら、さらにこちらの要求を聞いてもらうというこの提案は、はたから見れば、本当に失礼な話だ。どのように切り込むべきか。そもそも、お願いするべきなのか。私は何度も思案を重ねた。

 そしてベルギーGP出発の前日、私は電話で編集部の石原洋道さんにコンタクトをとり、直接会って正直に話をすることにした。石原さんは私からの提案をすべて聞くと、「これから帰って会社に相談してみないと分かりませんが、なんとかしましょう」と快諾してくれた。それは私にとって、何者にも勝る援軍だった。

現場での取材を終え、メディアセンターを出るのは決まって最後。ということで、ラストサムライならぬラストジャーナリストとなることもしばしば。こうして、単行本「歓喜」は作られていった

 その後、単行本を直接担当する編集者として、F1速報の編集で筆者が受け持っている連載を担当しているスタッフである干場千尋さんがつくこととなった。彼女はGPX、F1グランプリ特集で経験を積んだベテランで、F1の知識はもちろん、単行本の編集にも精通していた。

 筆者の事情を理解して、その後F1速報さんからの新規の執筆依頼はほとんどなくなった。そのおもいやりに報いるために、私は全力で取材と執筆活動を続けるしかない。その関係はその後、シーズン最終戦まで続いた。執筆活動はシーズン終了後も続いたため、オフシーズンに出版されるF1速報でも筆者への執筆依頼は大幅に制限してもらった。そのおかげで、筆者は1月と2月に、単行本の執筆活動に集中することができ、スケジュールどおり2022年の2月末に、脱稿した。

 単行本を上梓することができたのは、筆者のわがままを聞いていただいた石原さんと、素晴らしい編集作業をしてくれた干場さんという存在があったからだった。この2人と、筆者の状況を理解してくれたCINQには本当に感謝している。

 単行本「歓喜」は、F1速報の協力があったということを、この機会にお知らせしておきたい。

尾張正博

(おわりまさひろ)1964年、仙台市生まれ。1993年にフリーランスとしてF1の取材を開始。F1速報誌「GPX」の編集長を務めた後、再びフリーランスに。コロナ禍で行われた2021年に日本人記者として唯一人、F1を全戦現場取材し、2022年3月に「歓喜」(インプレス)を上梓した。Number 、東京中日スポーツ、F1速報、auto sports Webなどに寄稿。主な著書に「トヨタF1、最後の一年」(二玄社)がある。