尾張正博のホンダF1本「歓喜」の裏話
【第17話】ビリー・ジョエルの歌詞が頭から離れない
2023年9月22日 00:00
トルコGPの後、帰国した。2021年当時、アメリカはイギリスやアイルランドをはじめ、ヨーロッパの大部分の国々からの渡航者に対してメディアの入国条件が非常に厳しかったのに対して、日本からの渡航は比較的容易だった。
ところが、成田でチェックインし、日本系航空会社のラウンジで遅めの朝食をとっていたら、日本系航空会社の地上係員の方が歩み寄ってきて、「お客さまの出入国の手続きにちょっとしたトラブルが生じて、予定していた飛行機に乗れないことになりました」と告げられた。飛行機に乗れないという経験はこれまで何度かあるが、それらはいずれも空港へ向かう高速道路が事故渋滞だったり、単に遅刻して乗り損ねたりというもので、今回のように空港にいて、しかもチェックインした後に搭乗拒否にあうのは初めてだった。
これで全戦取材も終わりかと諦めていた筆者に、善後策を講じてくれたのが、最初に搭乗予定だった日本系航空会社の地上係員を務める守山なつさんだった。私が出入国の手続きをやり直すのを手伝ってくれ、さらに少しでも早く現地に到着するよう、自社の飛行機ではない別の航空会社の航空券の手配も快く手伝ってくれた。
守山さんのおかけで、6時間半後にアメリカ系の航空会社で日本を出発。ただし、問題はこれまで一緒に取材してきた熱田カメラマンが、予定していた便で先に日本を出発していたことだった。
私が熱田さんと2021年の取材を開始したエミリア・ロマーニャGPの前、2人でこんな約束をしていた。
「もしも、どちらかがコロナにかかったり、何か問題があったりしたときは、取材を優先させるために、先に1人で行っていい」と。
だから、私はアメリカに到着後、自分でレンタカーを予約してオースティンへ向かうつもりでいた。ところが、アメリカに着いて、LINEをチェックしたら、「レンタカー会社の駐車場で待っているよ」とメッセージが。このときだけでなく、熱田さんにはいろいろと助けられたものである。それは数え上げたらキリがないので、ここでは割愛するが、もし熱田さんがいなかったら、このシーズン、私は全戦取材を貫徹できなかったことは確かだ。感謝してもしきれない。
そんな熱田さんとは、アメリカGPで忘れられない一夜を過ごした。それは土曜日の夜にサーキットで開催されたビリー・ジョエル氏のコンサートだ。
ビリーは1980年代に活躍したシンガーソングライターで、現在74歳(1980年代はカーリーヘアだったが、歳を重ねてからはスキンヘッドに)。2020年に中止していたツアーを、ソロ・デビュー50周年を迎えた2021年に再開していた。そのビリーをアメリカGPの主催者がゲストとして招待。サーキット内の特別会場でツアーの一環として、コンサートを行なうこととなった。
チケット購入者はもちろん、メディアも無料で鑑賞できるという大盤振る舞い。これはもう行くしかないと、取材を終え、一段落したところで会場へ向かった。
「Movin' Out(Anthony's Song)」でスタートし、「Allentown」「My life」に続いて、ファーストステージの最後に歌ったのは、ビリーの代名詞ともいえる「Piano Man」。“今、時計の針は土曜日の夜9時を回ったところ”という歌詞で始まるこの歌をビリーが歌い出したのが、ちょうど土曜日の夜9時すぎ。憎い演出に、会場のファンたちはシビレ、全員で合唱し、ビリーとの時間を共有していた。
アンコールは「We Didn't Start the Fire」で始まり、「Uptown Girl」で場内の女性が大いに盛り上がり、エンディングは「You May Be Right(ガラスのニューヨーク)」だった。
ビリーは、シンガーソングライターということもあり、歌詞に力がある。今も彼が楽曲に込めたメッセージ性は色褪せることはない。
実はF1グランプリが開催されている会場でコンサートが行なわれたのはこれが最初ではなく、コロナ禍前も何度も行なわれ、今でも行なわれている。しかし、私も熱田さんもグランプリ期間中にコンサートを鑑賞したのはこのビリーが最初で最後だった。
なぜ、あのときコンサートへ行ったのか? コンサートへ行ったのは正しかったのか?
コンサートへ行くべきではなかったのか? その答えは、何度考えても、今でも出てこない。
でも、あの日のことを考えると、ビリーの「ガラスのニューヨーク」のサビに使われている歌詞が頭の中で反芻する。
ビリーは2024年の1月に、実に16年ぶりに一夜限りの来日公演を行なうことになっている。
しばらくビリーを聴いていないという方も、ビリーを知らないという方も、この機会にぜひ一度、「ビリー・ジョエル」の楽曲を聴いてみてほしい。