尾張正博のホンダF1本「歓喜」の裏話
【第19話】見えない糸
2023年10月6日 00:00
2015年にF1に復帰したホンダが、復帰後初めてチャンピオンシップ争いを演じた2021年。シーズンはメキシコGPを終え、いよいよ最終盤に突入していった。残るは4戦。サンパウロGPとカタールGPの連戦と、サウジアラビアGPとアブダビGPの連戦だった。
メキシコGPを終えた段階で、レッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペン選手が、ライバルであるメルセデスのルイス・ハミルトン選手をリードしていた。ここまで単行本「歓喜」を執筆するために“第4期”と呼ばれたホンダF1の取材を進めてきた筆者には、ホンダがフェルスタッペン選手とともに、メルセデスとタイトル争いを繰り広げていたことに、ちょっとした運命のようなものを感じていた。
というのも、ホンダとフェルスタッペン選手との出会いは、ホンダがレッドブルにパワーユニットの供給を開始した2019年ではなく、今から24年も前のことだったからだ。
1998年3月、ホンダは車体も含めたフルワークスでのF1復帰を発表した。そのホンダが参戦に向けて、1999年の1月から始めた合同テストで、ドライバー役に任命したのがフェルスタッペン選手の父であるヨス・フェルスタッペン氏だった。そしてなんとヨス氏はそのテストに、1997年に生まれたばかりのマックスくんを連れてきていたのだ。
テストを終えたヨス氏は、マックスくんを自分のシートに乗せた。それが、フェルスタッペン選手とホンダの最初の出会いだった。ホンダのF1に乗ったときに撮影された写真をフェルスタッペン選手は今でも大切にしている。2019年にホンダがレッドブルにパワーユニットの供給を開始し、一緒に仕事を行なうようになったとき、フェルスタッペン選手はホンダのチーフメカニックを務める吉野氏に、その写真を見せにきた。
実は写真を見せられた吉野氏は、その写真が撮影された1999年のテストに参加していた。そしてフェルスタッペン選手にこういった。
「私もこのとき、あなたのお父さんと一緒に仕事していたんだよ」
それを聞いたフェルスタッペン選手は驚き、吉野氏と顔を見合わせて、奇妙な偶然を笑ったという。
この運命的な出会いを実現させたのが、当時トロロッソ(現在のアルファタウリ)でチーム代表を務めていたフランツ・トスト氏だった。トスト氏はホンダがマクラーレンと組んでF1に復帰すると発表した翌年の2014年から、ホンダにラブコールを送り続けていた。
「実は私は2018年からパートナーを組む前にも、何度かホンダと話し合いを行なっていたんだ。最初にホンダとのミーティングを行なったのは2014年の日本GPのときで、私はアライ(新井康久氏:当時のF1プロジェクト総責任者)さんと一緒にHRD Sakuraへ行ったのを覚えている。しかし、当時のホンダは翌年からマクラーレンにパワーユニットを供給することで手一杯で、そのときはパートナーを組むまでにはいたらなかった。私はかつてラルフ(・シューマッハ)選手のマネージャーとして日本でレースしていた経験があり、ホンダのことは昔から知っている。彼らは寡黙だけれど、とても情熱がある。そして優秀だ。復帰した直後に苦しんだのは、彼らが有能ではなかったからではなく、時間が足りなかっただけ。ホンダには勝利を目指して決して諦めないというレーシングスピリットがある。時間をかけ、解決の緒さえ見つかれば、必ず復活すると信じていた」(トスト氏)
ホンダがトロロッソと2017年からのパワーユニット供給に向けて、2016年のロシアGPで極秘会談を行なおうとしていたことは、単行本「歓喜」の第2章でも触れている。その会談は当時マクラーレンのチーム代表を務めていたロン・デニス氏の翻意によって実らなかったが、それでもトスト氏はホンダとの関係を断つようなことはしなかった。トスト氏がいなければ、ホンダはマクラーレンと決別した2017年限りでF1から撤退していたかもしれない。そして、そうなっていればホンダがレッドブルと組むことはなく、チャンピオンにもなることはなかった。
そう考えると、2021年のホンダの戦いは、いくつもの縦の糸と横の糸が重なり合って作られた一片の織物のようにも思える。当時、日本を離れてF1の取材をしていた私と熱田カメラマンは、シェアしているレンタカーの中でそれぞれ好きな音楽を交代しながら再生していた。そのころ私が好んでかけていた楽曲が、中島みゆきの「糸」だった。
私にとって、縦の糸はホンダであり、横の糸はフェルスタッペン選手だった。1999年の1月に出会っていたホンダとフェルスタッペン選手が、それから19年後に出会うとは想像もしていなかっただろう。そして私は、「糸」の歌詞を聴くたびに、ホンダの技術者たちへ思いを巡らせていたものだった。