まるも亜希子の「寄り道日和」
国さんスマイルは、永久不滅です。
2022年3月24日 00:00
日本のモータースポーツとともに生き、多くのモータースポーツファンから愛された「国さん」が、天国へと旅立ってしまいました。お会いするたびに、笑顔でお話をしてくださっていたので、お身体をわるくされていたことなどまったく知らず……。感謝の言葉を直接お伝えできなかったことが、本当に悔やまれます。
高橋国光さんは1960年にホンダワークスライダーとなり、翌年には西ドイツグランプリで初優勝。ホンダに世界選手権での日本人初勝利をもたらした偉大な人です。国さんは、あまりそういうカッコいいところは自分の口からは語らず、その後マン島TTレースの大事故で負傷し、「あの時はねぇ、新聞に大きく“国光死す”って掲載されてね。僕も、あぁ自分は死んだのかな、なんて思ったくらいだったよ」と、ちゃめっ気たっぷりに当時のことを聞かせてくれたものでした。
その後、4輪に転向してからもビッグレースでの激闘を見せ、特にGT-Rに映えある50勝目をもたらしたことや、初代NSXでル・マン24時間レースに参戦し、土屋圭市さん/飯田章さんとともにGT2クラス優勝を果たしたことなど、日本ばかりか世界のモータースポーツ史に残る偉業を成し遂げ、人々をいつも熱くさせてくれた人なのだと思います。
1999年まで第一線のレーサーとして活躍し、惜しまれながら引退したあとも、SUPER GTの「チーム国光」を率いてさらにモータースポーツを盛り上げた国さん。ファンたちは、もう国さんが走る姿は見ることができないのかなと、ちょっと寂しく思っていたと言います。
ところが2004年。私が所属していた自動車ジャーナリストによるレーシングチーム「チームヤマケン」が、本田技術研究所(当時)の自己啓発チームが開発した初代シビックハイブリッドのレースマシンで、ツインリンクもてぎの7時間耐久レース「Joy耐」に参戦するという計画があり、なんとそのドライバーとして国さんがジョインしてくれることに! マシンが世界で初めて公認レースを走るハイブリッドカーになるということと、国さんが引退後初めて走るレースになるということで、自動車メディアや国さんファンから多くの注目を集めました。
そして……、なんという巡り合わせなでしょうか。国さんと組むドライバーのうちの1人に、当時ジャーナリストとして独立したばかりで、A級ライセンス取得ほやほや、レースど素人の私が大抜てき。ノンフィクション作家でモータースポーツに造詣の深い中部博さん、研究所チームリーダーの関根和弘さんの4人でバトンをつなぐことになったのでした。
国さんは偉大な人だと知ってはいたものの、練習日初日の朝、いつもとはまるで違うピットの雰囲気にびっくり仰天。メカニックさんもスタッフさんも、「あの国さんが来る!」ということで目がランランと輝き、動きはキレッキレでビシッとしていて、そこは緊張と興奮のるつぼ。みんな、われ先にサインをもらいたいのをグッと堪えて仕事をしている感じで、その光景を見てあらためて、国さんはスーパースターなんだなと実感したことを思い出します。
でもそれはほんの序の口でした。練習走行が始まり、みんなが国さんの走りに注目していると、最終コーナーをまわってストレートに戻り、ピット前を通過していった国さんが、サインボードを出しているメカニックさんに向けて右手をすっと上げ、親指と人さし指をL字に立てて合図。これが強烈にカッコよくて、ピットにいた全員がシビれてしまい、ドライバー全員がそれをまねするようになったのでした(笑)。
また、偉人と呼ばれる人なので、私たちのようなアマチュアチームとジョインしたとしても、走る時だけ一緒であとは食事もホテルも別々に行動なのかな、なんて思っていましたが、国さんは違いました。レースウィークは夜の飲み会も楽しみの1つで、そこでさらにチームの結束が深まったりするものですよね。国さんはそれをよく分かっていたのでしょう、嫌な顔せず快く参加してくれて、研究所の若手エンジニアと生ビールを酌み交わし、いろんな質問に答えたり冗談を言ったりして場を盛り上げてくれたのです。その時間は私たちにとって、本当にかけがえのない宝物になりました。当時、研究所の自己啓発チームにいたメンバーは今、ホンダの主幹モデルのエンジン開発責任者になっていたり、重要なマーケットである中国で仕事を任されていたり、ホンダを支える人材に育っています。国さんとこうして一緒にレースをしたことが、彼らの人生に大きな影響を与えたのは間違いないと思います。
そして、私が最も心に残っているのは、国さんのこのひと言。実はこの時、国さんがドライブしたシビックハイブリッドのマシンは、とにかく試行錯誤を繰り返してなんとかサーキットを走れるようにはなっていたものの、もてぎ本コースでタイムアタックすると、例えばガソリンエンジンのシビックよりも40秒以上も離されるという、とんでもなく遅いマシンだったのです。おそらく国さんのレース人生で、こんなにたくさん抜かれたことはないのではというくらい、参加した全車に抜かれてしまうようなマシンでした。
だから周囲はすごく気をもみました。せっかくの、国さんのレース復帰第1戦なのに、こんなマシンで申し訳ないと。国さんの走りをひと目見ようと集まったファンも、がっかりさせてしまうのではないかと。でも当の国さんはそんなことまったく気にしておらず、とにかく楽しそうなんです。マシンを降りてくると、誰かに話したくてたまらないというように、「さっきね、どうやったら速く走れるかなと思って、1コーナーをイン・アウト・インで行ってみたんだけどね」なんて、目をキラキラさせて話す国さん。まだ当時はハイブリッド車で耐久レースを走るなんて、誰もが無謀だ、邪道だ、と思っていた頃です。だけど最後に国さんは言ったのです。「今はね、抜かれる楽しさでしょ。でもいつか、これが主役になる日が来るよね」と。
今、そんな国さんの言葉どおりになっているのを見て、あらためて思います。国さんは過去の栄光を振りかざすことなく、モータースポーツの今を心から楽しみ、未来につなげていくことのできる人だったのだと。モータースポーツのこれからを担う人たちと、分け隔てなく楽しさを共有し、一緒に走ってくれる本物のスーパースターだったのだと。
国さんがまいたたくさんの種は、あちこちで芽吹いています。国さんの優しい笑顔を忘れることなく、私たちはそれを大切に育てていこうと思います。国さん、本当にありがとうございました。国さんスマイルはずっとずっと、永久不滅です。