奥川浩彦の「レースと写真とクルマの話」
第6回:日本のサーキットの変遷その3「船橋サーキット」
2020年7月9日 07:05
モータースポーツファンに贈る「日本のサーキットの変遷」シリーズ。今回紹介する「船橋サーキット」は、前々回の多摩川スピードウェイと同じく「え、そんなところにサーキットがあったの」と思われる人がいるだろう。短命に終わったサーキットでありながら、当時を知る人の記憶に深く刻まれた船橋サーキット。当時を知らない人(筆者もその1人)は、その跡地と周辺地域のドラマチックな歴史に驚かれるかも知れない。
筆者の手元に1冊の本がある。「サーキット・ヒーロー 速すぎた男達・16人列伝」はサーキットで亡くなったドライバー達の伝記だ。登場する外国人ドライバーは掲載順にジル・ヴィルヌーブ/ベルント・ローゼマイヤー/ジム・クラーク/ヨッヘン・リント/ロニー・ペテルソン/アルベルト・アスカーリ/ビル・ヴコヴィッチ/ペドロ・ロドリゲスの8人。日本人ドライバーは浮谷東次郎/福沢幸雄/川谷稔/中野雅晴/鈴木誠一/風戸裕/佐藤文康/高橋徹の8人。この本が発行されたのは1988年11月。1988年はマクラーレン・ホンダがシーズン16戦中15勝を挙げ、鈴鹿サーキットで2回目のF1グランプリが開催され、アイルトン・セナが初チャンピオンを獲得した年だ。
この本の日本人ドライバーで最初に登場する浮谷東次郎の物語は、1965年7月に船橋サーキットで行われた「全日本自動車クラブ選手権レース大会GT-Iクラス」の伝説の大逆転劇で始まる。福沢幸雄は同じ日に船橋サーキットで行なわれたT-IIクラスでレースデビュー。川谷稔も1965年9月に船橋サーキットで行なわれた「第1回ゴールデンビーチトロフィー セプテンバーレースミーティング」でレースデビュー。中野雅晴と風戸裕は1967年5月に船橋サーキットで行なわれた「日刊スポーツジュニアシリーズ第1戦」で同じ日にデビューしている。
この本に頻繁に登場する船橋サーキット。本を読んだ当時も今も、筆者の中では船橋サーキットと言えば浮谷東次郎。浮谷東次郎と言えば船橋サーキットだ。ただ、当時はインターネットもYouTubeもない時代。本で知った情報以上のことを得るのは容易ではなかった。インターネットが普及し「浮谷東次郎」や「船橋サーキット」を検索すると、数え切れないほどの情報を得ることができる。伝説のレースも映像で見ることが可能だ。あらためて調べてみると、さまざまな発見があり実に興味深いものとなった。
関東に本格的サーキットが誕生した
鈴鹿サーキットが日本初の本格的なサーキットとして生まれたのが1962年。富士スピードウェイがオープンしたのが1966年。船橋サーキットのオープンは1965年で、富士スピードウェイより一足早く、関東で最初の本格的サーキットとなった。
船橋サーキット開業までの経緯をみてみよう。近隣の施設として1950年8月に船橋競馬場が開場する。同年10月、競馬場の内馬場(インフィールド)にダートトラックの船橋オートレース場も開場。これが全国初のオートレース専用走路で「オートレース発祥の地」と呼ばれている。
1952年、船橋海岸の埋立地を深度約1000mまで採掘し天然ガスと温泉が湧出。これを利用して1955年に船橋ヘルスセンターがオープンする。船橋ヘルスセンターは今どきの健康ランドや温泉リゾート、レジャーランドとはスケールが異なっていたようだ。
さまざまな温泉施設に加え、ボウリング場、卓球場、ゲームセンター、プール、宿泊施設、美術館、ローラースケート場、アイススケート場、遊園地、野球場、テニスコート、人工芝スキー場、人工ビーチ、大劇場などを併設していた。
ここまでは驚くほどではないかもしれないが、例えば大劇場には、美空ひばり、ザ・タイガース、都はるみ、藤圭子(=宇多田ヒカルの母親です)、五木ひろし、キャンディーズといった当時のスターが登場している。「8時だョ!全員集合」の公開収録なども行なわれていた。
さらに、ゴルフ場、水上スキー、遊覧船、遊覧飛行などもあり、遊覧飛行専用の飛行場(=船橋飛行場)も持っていた。そしてサーキット(=船橋サーキット)も船橋ヘルスセンターの施設の1つだ。サーキットのように短命で終わった施設もあるので、すべての施設を同時並行で保有していたわけではないが、現在では想像できないスケール感だった。船橋ヘルスセンター……おそるべし。
船橋ヘルスセンターがその歴史の中で開発したさまざまなレジャー施設の1つが船橋サーキットだ。元F1ドライバーのピエロ・タルッフィにコース設計を依頼……、ピエロ・タルッフィって誰? 1950年にアルファ ロメオでF1デビュー。フェラーリ、メルセデスに在席し、F1優勝回数は1回。日本との関わりは深く、1964年に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリで名誉総監督として運営をアドバイス。生沢徹など日本人レーサーにドライビングテクニックを教えたという。
鈴鹿サーキット完成から3年、東京オリンピックの翌年となる1965年7月に関東で初の本格的サーキット、船橋サーキットがオープンした。
コースレイアウトは
どのようなコースだったのか。東京近郊の埋立地とあって敷地面積が限られていた。コース外周は1周1.8km。インフィールドを利用してコース長2.4km、3.1kmの3パターンで使用することができた。参考に現在のサーキットのコース長は鈴鹿サーキットの4輪用フルコースは現在5.807km。逆バンク、ダンロップコーナーからショートカットして最終コーナーに戻る東コースは1周2.243km。スポーツランドSUGOの4輪コースが3.586km、岡山国際サーキットが3.703km、筑波サーキットの4輪コースは2.045kmだ。
コースレイアウトを見てみよう。南の海側にメインスタンドがあり、その前の短めのメインストレートを西から東へ向かうと29.5Rの第1コーナーがある。第1コーナーを過ぎると北に向かってコース最長、約600mのストレート。北端には25R、25R、19R、102Rのコーナーセクションがあり、その形状が靴下(=Socks)に似ていることからソックスカーブ(ソックスコーナー)と呼ばれていた。
152R、370Rのゆるやかなカーブを南に向かい、外周コースはインフィールドエリアへのアクセスに利用する橋(ダンロップの看板がありダンロップブリッジと呼ばれていた)をくぐり30R、32.5Rの最終コーナーからメインストレートに戻ってくる。外周のコース長は1.8kmだ。外周コースを利用しているときは、インフィールドエリア(スクールコースとも呼ばれた)ではジムカーナを同時に行なうことができたという。
ダンロップブリッジの手前の33Rからインフィールドに入り、ピット裏を真っ直ぐ突っ切って、1コーナーの内側にある17Rを抜け、ピット前を東から西に向かい、12.3R、17Rを経て外周コースに戻るレイアウトはコース長が2.4kmとなる。
もう1つのレイアウトは、インフィールドエリアに入ってUターン。北に向きを変えコース最少10.7Rのヘアピンカーブを抜けて1コーナーの内側の17Rに戻るとコース長は3.1km。船橋サーキット最長のコースレイアウトとなる。
伝説となったオープニングレース
完成した船橋サーキットのこけら落としとなるイベントは1965年7月17日~18日に開催された「全日本自動車クラブ選手権レース大会」。英語表記の「All JAPAN CAR CLUB CHAMPIONSHIP RACE MEETING」からCAR CLUB CHAMPIONSHIPの頭文字をとってCCCレースなどと呼ばれている。
鈴鹿サーキットで1963年に第1回日本グランプリ、1964年に第2回日本グランプリが行なわれたが、主催者のJAF(日本自動車連盟)が1965年の第3回日本グランプリ中止を発表したため、船橋サーキットで開催されたこのレースに注目が集まった。注目の一戦に加え、関東初のレース開催とあって、決勝当日は雨にもかかわらず3万5000人が観戦に訪れたという。
当日のレースプログラムによると、7月18日決勝日のタイムテーブルは以下のとおり(表記もそのまま)。4つのレースがそれぞれ2.4km×30周=72kmで開催され、フォーミュラ・カーによる10周のエキシビションも行なわれた。
10時40分:ツーリングカーI(400~1300cc)
11時30分:グランド・ツーリング・カーII(1300cc以上)
13時:エキジビジョン・フォーミュラ・カー(4台)
14時:ツーリング・カーII(1000~2000ccまで)
15時30分:グランド・ツーリング・カーI(400~1300ccまで)
午前中に行なわれたグランド・ツーリング・カーII(GT-II)クラスはロータスエランを駆る浮谷東次郎がポール・トゥ・ウィンを飾った。2位は生沢徹(プリンススカイライン2000GT)、3位は北野元(ダットサンフェアレディ)となった。エキシビションを挟んで午後に行なわれたツーリング・カーII(T-II)クラスは福沢幸雄(いすゞベレット)のデビューレースだ。
15時30分、伝説のレースが始まった。雨がやみ一部レコードラインは乾きつつあるも路面はハーフウェットの中、最終レースであるグランド・ツーリング・カーI(GT-I)クラスの決勝を迎えた。ポールポジションは生沢徹(ホンダS600)、浮谷東次郎(トヨタスポーツ800)は4位スタートとなった。
生沢が1つ順位を落とし2位、浮谷が3位に浮上して迎えた4周目、最終コーナー手前の17Rで浮谷と生沢が接触。浮谷は傷めたフロントフェンダーがタイヤに干渉したため5周目にピットインし16位に後退。生沢はドアが凹んだだけでそのまま走行を続け、トップのマシントラブルがあり1位にポジションアップした。
16位まで後退した浮谷の快進撃が始まる。9周目には10位、12周目に8位、16周目に7位とごぼう抜きで順位を上げる。他車の脱落もあり18周目に4位、19周目に3位、20周目に2位までポジションアップ。前を走るのはトップの生沢だけとなった。
23周目、最終コーナーで生沢をパスして浮谷がトップに立ち、残り7周で19秒の差を付けチェッカーを受けた。奇跡的な大逆転劇でGT-IIクラスに続くこの日2勝目を飾った浮谷は一躍ヒーローとなった。このレースはトヨタスポーツ800のデビューレース。初参戦で初優勝となった。
船橋サーキットは関東にできた初の本格的サーキット。おそらく多く人が初めて見るサーキット、初めてのレース観戦。目の前で起きたドラマチックな逆転劇に酔いしれ浮谷東次郎の名を深く焼き付けたと思われる。
この日のGT-II、GT-Iの映像は“浮谷東次郎"で検索すると見ることができる。コースレイアウト図とあわせて見ると、映像がどのコーナーで撮影されたかもほぼ分かるだろう。元映像は同じだが、解説により2台が接触した場所や周回、トップ浮上の周回などが異なるが、当時の様子は充分に感じられるはずだ。
サーキット廃止へ
船橋サーキットは日本グランプリの招致を目指したが実現できなかった。1965年は開催中止となった日本グランプリは1966年からオープンしたばかりの富士スピードウェイで開催される。船橋サーキットでもさまざまなレースが開催されたが、大きな集客、安定した収益を得ることは難しかった。
そのころ、船橋競馬場の内馬場にあった船橋オートが移転先を探していた。船橋オートは競馬場内にあったため競馬とオートの同時開催はできず互いに開催日数が制限されていた。オートレースの騒音の競走馬に対する影響も懸念されていた。さらにオートレースのダートトラックの使用が認められなくなり、舗装路による新しいレース場への移転は急務となっていた。
サーキット継続を諦めた船橋ヘルスセンター側と移転先を探す船橋オート側がサーキット跡地への移転で合意。サーキットオープンから2年後の1967年7月、船橋サーキットは短い歴史に終止符を打った。
その後の歴史
サーキットは短命で終わったが、跡地と周辺地域のドラマチックな歴史はここから始まる。サーキットの跡地に1周500mの舗装路を持つ船橋オートが新設されることとなり、サーキット廃止から半年後の1968年1月に船橋オートが移転オープンした。移転工事に際し、船橋サーキットのメインスタンドを流用したため、オートレース場としては珍しくバックストレッチ側にもスタンドのある構造となった。
船橋競馬場は川崎競馬場も所有する関東レース倶楽部が所有し、移転した船橋オートの土地は船橋ヘルスセンターのオーナーである朝日土地興業、施設は関東レース倶楽部という形態となった。関東レース倶楽部は遊園地、水族館、ゴルフ場なども所有し、後に社名を「よみうりランド」と改める。
船橋飛行場は元々船橋ヘルスセンターの南側に1958年に建設され、サーキット建設と同時にサーキットの東側に移設された。サーキット廃止の2年後、1969年に閉鎖され跡地はゴルフ場となった。
1970年代になると船橋ヘルスセンターの来場者が減少。加えて地番沈下の原因となる温泉のくみ上げが差し止められた。オーナーの朝日土地興業株式会社は三井不動産に吸収合併、1977年に船橋ヘルスセンターは閉園、22年の歴史に幕を閉じた。
1981年、船橋ヘルスセンターの跡地に「ららぽーと船橋ショッピングセンター(現在は、ららぽーとTOKYO-BAY)」がオープン。ららぽーとの1号店で、開業当時は売り場面積が日本全国で1位、現在も全国のららぽーとの中で最大の店舗面積を持っている。
サーキット東側の飛行場跡地はゴルフ場、一時流行った巨大迷路を経て1993年に世界最大の屋内スキー場「ららぽーとスキードームSSAWS(ザウス)」が完成する。SSAWSの名前は、Spring Summer Autumn Winter in Snowの頭文字からネーミングされた。長さが約480m、幅が約100mのゲレンデが作られ、アルペンスキー・ワールドカップで総合優勝者したオーモット選手など、世界的な選手が夏季の練習場所として利用した。
ザウスは元々10年間限定の施設として建設されたもので、その間にスキー人口の減少もあり2002年9月に予定通り閉鎖された。ザウスが解体され、その跡地にIKEA船橋(現在は、IKEA Tokyo-Bay)が2006年に日本1号店としてオープンする。
オートレース発祥の地だった船橋オートは2016年3月で廃止となり66年の歴史に幕を閉じた。元々船橋サーキットの跡地に移転した船橋オートは、施設が関東レース倶楽部(よみうりランド)、土地が船橋ヘルスセンターのオーナーである朝日土地興業の所有。その後、朝日土地興業が三井不動産と合併したため、船橋オートの跡地では三井不動産ロジスティクスパークの建設が進められている。
わずか2年と短命に終わった船橋サーキットだが、その跡地と周辺地域ではドラマチックな歴史が展開された。船橋オートの解体で痕跡もなくなったが、記憶に残るサーキットと言えそうだ。
船橋サーキットの跡地を訪ねてみた
船橋サーキットの痕跡がないことは承知で現地を訪れてみた。撮影した場所を現在の航空写真にマーキングし、そのマーキングをサーキットが存在していた1966年に重ねてみた。
撮影した4か所は船橋サーキットのグランドスタンド、1コーナー、ストレートエンド、ストレート中間あたりだと思われる。撮影場所のGoogleマップの位置表示と写真でその様子を見ていただこう。
伝説となった浮谷東次郎
冒頭に書いたように船橋サーキットと言えば浮谷東次郎、浮谷東次郎と言えば船橋サーキット。サーキットの変遷を紹介する記事だが浮谷東次郎にも少しだけ触れておこう。
浮谷東次郎は1942年(昭和17年)7月16日生まれ。生きていたら2020年の誕生日を迎えると78歳となる。伝説のレースとなった船橋サーキットで開催された「全日本自動車クラブ選手権レース大会」は23歳になった直後のレースだった。
東次郎は千葉県市川市で経済的に恵まれた環境で生まれ育った。浮谷家の敷地は1400坪もの広壮な屋敷だったという。現在も市川市に浮谷家は残っていて、東次郎の死後、母親の和栄さんと姉の朝江さんにより「ザ・チャペル・オブ・アドレーション」という教会が建てられた。
教会を訪ねてみた。過去には東次郎が乗ったマシンなどが展示されていたが、現在は別の場所で移されているという。それでも教会に保存されていた貴重な蔵書などを見せていただけたり、資料を提供いただいたので、その一部を紹介しながら浮谷東次郎の生涯を振り返ってみよう。
父親がクルマ好きだった影響で、東次郎は幼少期からクルマやオートバイを運転していた。当時は14歳から原付の運転許可証を取得でき、中学3年でドイツ製のクライドラー(50cc)で千葉~大阪を往復した。舗装路がほとんどない時代に中学生が原付で大阪まで行くことは冒険であり、その様子を「がむしゃら1500キロ」という本にしている。
1960年、進学することに興味を持てず高校3年の秋に中退し「何かを求めて」18歳で横浜港から単身アメリカへ。ニューヨークでの貧乏生活に苦しみ「何をしにアメリカに来たのか?」と疑問を感じ、ヒッチハイクでロスへ。そこで観戦したバイクレースにインスパイアされアルバイト代をためてバイクを購入。バイクでロス~NY~ロスの大陸横断往復の1人旅に出る。オートバイレースにも参加。ビザが切れ1963年6月、2年半ぶりに日本に帰国した。渡米中に残した日記や手紙は「俺様の宝石さ」として出版されている。
帰国後、第1回日本グランプリに参戦した式場壮吉や生沢徹らの影響もあり、自ら売り込みの手紙を書き、トヨタの契約ドライバーとなる。
1964年の第2回日本グランプリのT-Vクラスにトヨペットコロナで参戦。これがデビューレースとなった。このレースの勝者はプリンススカイラインに乗る生沢徹。プリンススカイラインが上位を独占する中でトヨタ勢トップの11位でフィニッシュしている。1964年9月には渡英し、式場、生沢らとジム・ラッセル・レーシングスクールでドライビングを学ぶ機会を得た。
1965年5月の「第2回クラブマン鈴鹿レースミーティング」ではT-IIクラスはコロナで優勝、GT-IクラスはホンダS600で優勝した。
1965年7月にオープンしたばかりの船橋サーキットで伝説の逆転劇を見せた1か月後。8月20日に鈴鹿サーキットの130Rで練習走行中にコースにいた人を避けようとしてクラッシュ。翌8月21日に23歳と1か月の短い生涯を終えることとなった。
レーサーとして活動したのは1年4か月。短い期間であったが、多くの人の記憶に残る活躍をした。筆者は数十年ぶりに船橋サーキットと浮谷東次郎について深く知る機会を得たことを喜ばしく思っている。