奥川浩彦の「レースと写真とクルマの話」
第4回:日本のサーキットの変遷その1「多摩川スピードウェイ」
2020年4月27日 07:55
サーキットに行きたい……行けない。レースが観たい……テレビもリアルもしばらく我慢だ。残念ながらサーキットでレースが見られるのが何時になるか先が見えない状況だ。今回から、寂しい想いをしているモータースポーツファンに、日本のサーキットの変遷をお届けしよう。
現在、日本でSUPER GTやスーパーフォーミュラが開催されるサーキットはスポーツランドSUGO(宮城県)、ツインリンクもてぎ(栃木県)、富士スピードウェイ(静岡県)、鈴鹿サーキット(三重県)、岡山国際サーキット(岡山県)、オートポリス(大分県)の6つ。この6つのサーキットの開業年は以下のとおり。
サーキットの開業年
鈴鹿サーキット:1962年
富士スピードウェイ:1966年
スポーツランドSUGO:1975年
岡山国際サーキット:1990年
オートポリス:1990年
ツインリンクもてぎ:1997年
鈴鹿サーキットは開業から58年、富士スピードウェイは54年、スポーツランドSUGOは45年と歴史が古い。岡山国際サーキットとオートポリスは開業から30年となるが、岡山国際サーキットはTIサーキット英田として開業し、経営不振により2005年から岡山国際サーキットとなった。オートポリスも開業から2年後に倒産。大分阿蘇レーシングパークと名称を変更、1996年からオートポリスとして現在にいたっている。比較的新しいツインリンクもてぎでも開業から23年が経過している。
日本で最初の常設サーキット
今回紹介する「多摩川スピードウェイ」は、鈴鹿サーキット開業の26年前、1936年に日本で最初の常設サーキットとして多摩川の河川敷に誕生した。場所は東急東横線と多摩川が交わる付近の神奈川県川崎市側の河川敷。Googleマップでこの河川敷を見ると「多摩川スピードウェイ跡」と記されている。国土地理院の空中写真閲覧サービスで当時の様子を見ると、この地にオーバルコースが作られたことが確認できる。
簡単に歴史を振り返ろう。多摩川スピードウェイは1936年(昭和11年)5月に開業した。1周1200m、コース幅20mのオーバルコースで、南側の堤防土手に約300mの観戦スタンドが作られた。開業直後の1936年6月に「第1回全国自動車競走大会」が開催され、同年10月に第2回大会、翌1937年5月には第3回大会が開かれ、3万人の観衆が集まったと言われている。この記事の1番最初の写真は「第3回全日本自動車競走大会」で撮られたものだ。
次のイラストは本田技研の技術研究所でデザインを担当した日向野隆三氏が描いた「多摩川スピードウェイ風景画」だ。土手に集まる観衆。オーバルコースを疾走するマシン。右側に東京横浜電鉄(現在の東急電鉄)を見ることができる。
しかし、時代はモータースポーツの繁栄を許さなかった。1937年の盧溝橋事件から日中戦争が激化、1939年にはヨーロッパで第二次世界大戦が開戦、1941年の真珠湾攻撃から日本は太平洋戦争に突入した。大きな大会は行なわれなくなり、戦後は進駐軍と日米親善モーターサイクルレースなども開催されたが、主に草レースが行なわれる程度だった。
大会が行なわれなくなった1941年の写真はコースに大きな変化はないが、終戦から2年後の1947年の写真では、レーストラック以外は細かく区画され、膨大な数の畑が見てとれる。それはインフィールドも外周も、川を渡った東京側も、空いている土地は全て食糧難のために農地と化していた。明確な廃止時期は不明とされているが、1950年代には多摩川スピードウェイはその役目を終えることとなる。
全国自動車競走大会の様子
1936年6月に開催された第1回全国自動車競走大会の出場者に本田宗一郎の名前がある。本田技研工業の創業者の本田宗一郎だ。
時間をさらに巻き戻そう。本田氏は現在の静岡県天竜市で生まれ1922年(大正11年)に15歳で東京のアート商会で働くこととなる。アート商会は自動車修理工場で、ピストンの製造なども手がけ、現在はアート金属工業という世界的ピストンメーカーだ。
1923年、アート商会はオーナーの榊原郁三氏、弟の真一氏、本田氏らの手でレーシングカーの製作を開始。アメリカのカーチスという航空機エンジンをアメリカ車のシャーシに搭載したカーチス号は、1924年11月の第5回日本自動車競争大会で、操縦士・真一氏、同乗機関士・本田氏により優勝している。大正時代のレースは競馬場や埋立地といった特設コースで行なわれていた。
常設コースの熱望が高まり多摩川スピードウェイが完成する。1928年にのれん分けでアート商会浜松支店を設立した本田氏は、フォード車を改造した「濱松号」で弟とともに第1回全国自動車競走大会に出場した。この大会はゼネラルモーターズカップ、フォードカップ、国産小型、ボッシュカップ、商工大臣カップ、優勝カップとクラス分けされ、本田氏の運転する濱松号はゼネラルモーターズカップでトップを独走するも、ゴール直前に周回遅れのマシンを避けようとして横転。助手席の弟は重傷、本田氏も骨折、顔を怪我して視力低下をおこした。大事故にもめげず同年10月の第2回大会にも参戦するが、これが本田氏の最後のレース参戦となった。
第1回大会のボッシュカップで優勝したのはアート商会の榊原真一氏が運転するカーチス号。小型国産レースは三井物産の傘下にあったオオタ自動車工業のオータ号が日産自動車のダットサンを退け優勝している。敗戦した日産自動車は10月の第2回大会で優勝し雪辱を期した。当時の参加車両はブガティ、シボレー、フォード、ベントレーなど外国車の台数が多かった。
当時の様子は映像でも見ることができる。詳細は不明だが第2回大会を映したものだと思われる。多くの観客がレースを楽しんでいた雰囲気が伝わってくる。
サーキット閉鎖後
筆者が多摩川スピードウェイの存在を知ったのは数年前。2016年に多摩川スピードウェイ80周年の記事を目にしたのだと思う。筆者は1981~83年に東急東横線の菊名駅を最寄り駅としていて、車窓から多摩川スピードウェイの跡地を何度も目にしていた。ただ、記憶は「その場所には日ハムの練習グランドがあった」というものだ。調べてみると、1961年(昭和36年)に東映フラヤーズがこの地を借り上げ二軍本拠地および練習場を開設。1973年に日拓ホームフライヤーズ、翌1974年に日本ハムファイターズと球団名を変えても利用し続けていた。筆者の記憶は合っていた。車窓から見ていたのは日ハムの多摩川グランドだった。
1997年(平成9年)に千葉県鎌ケ谷市に「日本ハムファイターズタウン鎌ケ谷」が完成。この年を最後に多摩川グランドの使用を終了した。現在は「川崎市多摩川丸子橋硬式野球場」となっている。
余談だが「多摩川グランド」と聞いて、年配の読者が思い浮かべるのは巨人軍多摩川グランドだろう。そう、星飛裕馬が大リーグボールを編み出した巨人軍多摩川グランドは多摩川を挟んで東京側の河川敷にあった。
巨人軍多摩川グランドは一足早く1955年(昭和30年)に開設、巨人黄金期を支えることとなった。河川敷という立地ゆえ台風などの水害で長期に使用できなくなり、水没した際の被害額は数千万円となった。多摩川の水害で有名なのは1974年の台風16号。上流の狛江市の堤防が決壊した「狛江水害」の、民家が流される様子はドラマ「岸辺のアルバム」でも使用された印象に残る映像だ。
1985年によみうりランド内に読売ジャイアンツ球場が完成し多摩川グランドは使用されなくなり、現在は多摩川緑地広場硬式野球場となっている。
1936年から2017年の航空写真をアニメーションGIFでつないでみた。時代の変遷を見ていただきたい。
現在の多摩川スピードウェイ跡地を訪ねてみた
多摩川スピードウェイ跡地を訪ねてみた。まだ7都府県に緊急事態宣言が出る前で、平日の多摩川の河川敷は人もまばら。サイクリングをする人、キャッチボールをする人などがノンビリとした時間を過ごしていた。対岸の東京側の川岸には桜を見ることができた。
堤防の上に立つと観戦スタンドが左右に広がっていた。観戦スタンドと知っていれば、これが歴史的な建造物に見えるが、知らなければ少し変わった堤防にしか見えないだろう。下流側に東横線の線路が見え、河川敷には野球のグランドがいくつも並んでいた。
観戦スタンドは上段が階段状。中間に通路を挟んで下段はスロープとなっていた。中間の通路は舗装をし直したように見え、サイクリングにちょうど良い通路となっていた。おそらく、ほとんどの人が80年前にこの堤防で3万人の観衆が熱狂したことなど知らず、せっせと写真を撮る筆者を見て「あの人、何撮ってるんだ?」くらいに思っていただろう。
スタンドの途中途中に観戦席とは段のピッチが異なる階段(通路)が設置されてた。全部で13本の階段があり、中央の階段は幅が広く、ここが観戦スタンドの中央だと分かった。選手やVIPな招待客はこの階段を通ったのだろうか。
上段の階段部分にも下段のスロープ部分にも無数の四角い穴が開いていた。一定のピッチで開けられているので、おそらく木製ベンチを固定するための穴だと思われる。
観戦スタンドを下流方向へ進むと、2016年5月に80周年を記念して埋め込まれたプレートがあった。プレートには多摩川スピードウェイの説明と空撮写真、1938年4月のレースシーンが記されていた。寄贈したのは多摩川スピードウェイの会。
河川敷に降りて川岸まで進み振り返ると約300mの観戦スタンドは普通の堤防とは異なることが見てとれる。スタンドの後方には武蔵小杉のタワーマンション群がそびえている。
せっかくなので、対岸の東京側に渡り元巨人軍多摩川グランド、現在の多摩川緑地広場硬式野球場にも寄ってみた。2つグランドがあり、上流側が元巨人軍多摩川グランドだ。バックネットに「硬式A」と書かれている。こちらの球場は川崎市側より整備が行き届いている印象。この堤防からも多摩川スピードウェイの観戦スタンドを見ることができた。
このグランドから堤防を越えたところに「グランド小池商店」がある。昔、ジャイアンツの選手が頻繁に訪れたことで有名な店だ。外観は改装され昔の面影はないが、店内に入ると、ジャイアンツファン垂涎のプチ博物館。若き日のV9戦士の写真、サイン、バットなどが所狭しと飾られている。お店の方によると「新型コロナウイルスの影響でしばらく営業を自粛する」とのことだった。
また余談だが、チョット気になって、映画「シンゴジラ」でゴジラが多摩川を渡るシーンを確認してみた。武蔵小杉のタワーマンションを抜けたゴジラは東横線より下流の丸子橋とさらに下流の新幹線の陸橋の間で自衛隊の砲撃を受け、丸子橋を破壊して東京に進行する。多摩川スピードウェイの跡地、および観戦席は何度も映像に映るが破壊されることはなかった。
普通であれば「是非、足を運んでいただきたい」と言いたいところだが、この時期は自粛をしていただき、新型コロナウイルスが終息してから訪れていただきたい。80年間、濁流に襲われてもその姿を残してきた観戦スタンドは、1年後も5年後もゴジラに踏まれないかぎり健在だろう。
さて、ドラマ風に次回の予告をしてみよう。この写真は鈴鹿サーキットが建設される前の航空写真だ。この写真のどこにサーキットができるのか、想像していただきたい。