奥川浩彦の「レースと写真とクルマの話」

第5回:日本のサーキットの変遷その2「鈴鹿サーキット」

1962年、完成間近の鈴鹿サーキット

 レースシーズンの開幕が待ち遠しいモータースポーツファンに贈る「日本のサーキット変遷」シリーズ。前回の多摩川スピードウェイは「知らなかった」「まさか多摩川の河川敷にサーキットがあったとは!」と思われた人がいただろう。今回紹介する鈴鹿サーキットはCar Watchの読者で知らない人がいない、行ったことのある人がたくさんいるであろう日本を代表するサーキット。日本のモータースポーツの聖地と言って過言ではないサーキットだ。

 前回の記事の最後に鈴鹿サーキットが建設される前の航空写真を掲載し「写真のどこにサーキットができるのか想像していただきたい」と書いたので、その答えをお知らせしよう。

 鈴鹿サーキット稲生駅方面からイオン鈴鹿店方面に抜けるサーキット道路は影も形もないが、道伯町方面からサーキットのメイン駐車場の前、ガソリンスタンドのある鈴鹿サーキット前交差点、シケインのQ2スタンドの裏を抜けて逆バンクゲート方面へ下る道である県道643号線は、サーキットができる前から存在していたようだ。

 では、鈴⿅市の丘陵地帯でサーキット建設が始まる前へ……「時を戻そう」。(※お笑い芸人のペコパ⾵に)

世界のHONDAへ

 多摩川スピードウェイで1936年(昭和11年)に開催された第1回全国自動車競走大会に出場した本田宗一郎氏はアート商会浜松支店を従業員に譲り製造業の道へ。1946年(昭和21年)に本田技術研究所を設立。自転車の補助動力を製造・販売した。

1946年、陸軍の発電用エンジンを改造し自転車に取り付ける補助動力を製造(ホンダコレクションホール)
1947年、自社製エンジンを開発。Hondaの名が記された最初の製品「A型エンジン」を製造(ホンダコレクションホール)

 1948年(昭和23年)に本田技研工業株式会社を設立。1958年(昭和33年)に「スーパーカブC100」を発売。1960年、スーパーカブ量産のため三重県鈴鹿市に鈴鹿製作所を開設。1960年度の生産台数は56万台を記録し、オートバイメーカーとして飛躍することとなる。

初代スーパーカブ。50年以上にわたり改良を続けながら生産され、シリーズ累計1億台を超えるロングセラーとなった(ホンダコレクションホール)

 レース活動では1954年に国産車として初の海外遠征(ブラジル・インテルラゴス)を行なった。マシンはリアサスペンションのないオートレース用フレームに、2段変速OHVエンジン(6馬力)を搭載した「R125」。「MVアグスタ」をはじめとする海外勢は4段変速OHCエンジン(16馬力)、コイルスプリング式のリアサスペンションを搭載するなど技術力の差は圧倒的だった。

 1955年にマン島TTレース出場を宣言。1959年にマン島TTレース初出場、1961年に初優勝をとげる。1960年からロードレース世界選手権にも本格参戦。1961年の開幕戦、スペインGP125ccクラスで初優勝。第2戦のドイツGP250ccクラスで高橋国光選手が日本人として初優勝した。

1954年、初めて海外遠征したR125。リアサスペンションのないオートレース用フレームに2段変速OHVエンジンを搭載(ホンダコレクションホール)
1959年、マン島TTレースに初出場したRC142。6段変速、DOHC、2気筒エンジンを搭載していた(ホンダコレクションホール)
1961年、ロードレース世界選手権の開幕戦、スペインGPの125ccクラスで初優勝したRC143(ホンダコレクションホール)
1961年、ロードレース世界選手権の第2戦、ドイツGPの250ccクラスでRC162を駆る高橋国光選手が日本人として初優勝した(ホンダコレクションホール)

サーキット建設の道のり

 海外レースに参戦を始めるも、当時の日本には舗装されたサーキットはおろか高速道路もなかった(日本初の高速道路、名神高速の栗東~尼崎が開通するのは1963年)。そこで鈴鹿製作所の近隣にサーキットを建設することになった。

 当初は現在よりも北東の水田地帯での建設が予定されていたが、本田宗一郎氏の「田んぼをつぶしてはいかん。何もない山林原野を使え」の一言で現在の場所が候補地となる。1960年(昭和35年)8月にコースレイアウトの初期案が完成。修正を重ね1962年(昭和37年)1月に最終決定となった。

「鈴鹿サーキット モータースポーツ30年の軌跡」(1992年)に掲載された原案の地図と、1960年8月の初期案から修正を重ね1962年1月に最終決定されるまで

 筆者は書籍などで、鈴鹿サーキットのコースレイアウト案の変遷は過去に目にしたことがあった。今回、執筆に際し鈴鹿サーキットから提供いただいた「鈴鹿サーキット モータースポーツ30年の軌跡(以下:30年史)」(1992年)で、現在より北東にレイアウトされた原案の地図を初めて見ることができた。せっかくなので原案のコースを現在の航空写真に重ねてみた。

 建設の責任者となった塩崎定夫氏は1960年8月にコースレイアウトの初期案を作成。12月にヨーロッパのサーキットを視察し、オランダのホンダディーラーを介してザントフォールト・サーキットの支配人をしていたフーゲンホルツ氏にサーキットの設計と監修を依頼した。

 フーゲンホルツ氏は1951年にFIA(国際自動車連盟)でモンツァ、ブランズ・ハッチ、ホッケンハイムリンク、ニュルブルクリンクなどの支配人たちとサーキット支配人連盟を創設し初代会長職を務め、イベント開催時の観客の誘導などサーキット運営のための詳細なマニュアルを整備した人物だ。コースアウトしたマシンやタイヤをポールと金網で減速させる「キャッチフェンス」を考案、FIAが初めてサーキットの安全規則をまとめる際も策定に参加している。

来日し現地調査を行なうフーゲンホルツ氏(鈴鹿サーキット提供)

 鈴鹿サーキットの設計に携わった後も、ゾルダー・サーキット(ベルギー)、ハラマ・サーキット(スペイン)などの新設サーキットを設計。1966年に改修を行なったホッケンハイムリンクは、2002年のヘルマン・ティルケ氏の設計による大改修で現在のレイアウトになるまで基本レイアウトは変更されなかった。

 余談だが、筆者が多くの海外サーキット名を知ったのはマンガ「赤いペガサス」。1985年でF1開催が途絶えたザントフォールトや、1980年で途絶えたワトキンズ・グレン(US)といったサーキットは名前しか知らなかった。インターネットが普及しザントフォールト・サーキットのコースを見た印象は「1コーナー~S字が鈴鹿に似てる」だった。正しくは「鈴鹿が似てる」となるのだろう。2020年、F1グランプリ第5戦は35年ぶりのオランダ開催。ザントフォールト・サーキットがフェルスタッペン応援団でオレンジ色に染まるはずだったが、新型コロナウイルスのパンデミックのため開催延期となっている。

オランダ、ザントフォールト・サーキット(Googleマップ)。「1コーナー~S字が鈴鹿に似てる」が、2018年のWTCR(世界ツーリングカーカップ)の映像を見ると鈴鹿よりは小さめに見えた

 フーゲンホルツ氏は1961年の年明けに来日。前年に塩崎氏が作成した案をベースに1~2コーナーの形状、S字区間などのコースレイアウトを修正。コース設計を手掛けるだけではなく、建物などの付帯設備の配置、観客の導線、監視ポストの位置など、サーキット完成後を見据えたノウハウをサーキット側に提供。

 翌1962年9月に鈴鹿サーキットは完成した。

完成間近の鈴鹿サーキット。鈴鹿の丘陵地に美しコースレイアウトを見せた(鈴鹿サーキット提供)
1963年の航空写真。1コーナーの先は海まで水田が広がっていた(鈴鹿サーキット提供)

初期のレース

 サーキット完成直後の1962年11月にオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された。セニア350cc、セニア250ccクラスで優勝したのはジム・レッドマン選手。レッドマン選手は翌1963年に日本で初めての行なわれた世界選手権「第1回日本グランプリロードレース」でも優勝している。

1963年、日本で初めての世界選手権「第1回日本グランプリロードレース」が開催され、レッドマン選手が優勝した
2012年「鈴鹿サーキット開場50周年アニバーサリーデー」に登場したジム・レッドマン選手
レッドマン選手は「RC164」でデモ走行を行なった

 第1回全日本選手権ロードレースのセニア50ccクラス決勝でトップを独走していたのは、この年の世界グランプリ50ccクラスチャンピオンのエルンスト・デグナー選手。4周目の立体交差手前の右80Rコーナー(当時第10カーブ)で突風にあおられ転倒。以後、デグナー選手が転倒したこのコーナーを「デグナー(カーブ)」と呼ぶようになった。

1962年、第1回全日本選手権ロードレースのセニア50cc。30年史に場所の記載はないが逆バンクだろうか。「そこで見てると危ないですよ」と言いたくなる(30年史より)

 1963年5月には第1回日本グランプリ自動車レースが開催される。国際スポーツカーAクラスで優勝したのは「ロータス23」を駆るピーター・ウォー選手。ウォー選手も鈴鹿サーキットのリニューアルを記念して2009年に開催された“START SUZUKA”OPENING THANKS DAYに登場した。

ロータス23でのデモ走行を終え、小倉茂徳氏と写真に収まるピーター・ウォー選手

 読者の中で古くからのF1ファンは、レーサーとしてのピーター・ウォー氏より、ロータスのチーム監督としてセナ選手や中嶋悟選手の傍らにいたウォー氏を覚えているだろう。若き頃はレーサーとして活躍し、1964年の第2回日本グランプリ自動車レースではフォーミュラカーで争われたJAFトロフィークラスに「ロータス27」で参戦。マイク・ナイト選手(ブラバムBT6)に次ぐ2位となった。

第2回日本グランプリ自動車レースJAFトロフィークラス。スタートでロータス27のピーター・ウォー選手がトップに立つが、2位に付けたマイク・ナイト選手が逆転で優勝した

 当時のサーキットの様子を30年史の中からいくつか紹介しよう。また、第2回日本グランプリレースの映像も見ていただきたい。

1963年、第1回日本グランプリ自動車レース、国内スポーツカーB IIクラス。ヘアピンのイン側に観客エリアがあり、立体交差の左上を見ると130Rの外側とデグナーのイン側の土手が高く観客エリアとなっている。デグナーのアウト側も切り立った崖でかなりの観客が見える
1963年、第1回日本グランプリ自動車レース。現在と同じ場所に広大な駐車場。遊園地、ホテルなどの施設はまだない
1964年、第2回日本グランプリ自動車レース、GT-IIクラス。ダンロップと最終コーナーに挟まれたエリアに謎のお城が見える
1964年、第2回日本グランプリ自動車レース、T-Vクラス。ピットビルがない時代はグランドスタンドから東コースが一望できた
1964年、第2回日本グランプリ自動車レース、T-VIクラス。ダンロップコーナー付近

コース改修

 鈴鹿サーキットはコースの基本レイアウトはほとんど変わっていないが、安全対策で行なわれたレイアウト変更を図と航空写真で振り返ってみよう。

1983年:最終コーナーにシケインを設置
1984年:スプーンカーブを内側に移動。アウト側のランオフエリアを拡張
1985年:1コーナーをやや手前に移しアウト側のランオフエリアを拡張。100R、70R、60Rの3つの複合コーナーを100Rと60Rの2つのコーナーと短い直線へ変更
1987年:デグナーカーブを80Rの1つのコーナーから、15Rと25Rの2つのコーナーを137mの直線でつなぐ形状へ
1991年:シケインを最終コーナー側に30m移動。ピットロード入口を130R側に70m移動
2001年:S字コーナーの一部を内側に寄せ、アウト側のランオフエリアを拡張
2002年:逆バンク~ダンロップカーブ区間を内側に寄せ、アウト側のランオフエリアを拡張
2003年:130Rを85Rと340Rの複合コーナーに変更。4輪と2輪でシケインを分離。4輪用は入口を60m手前に移してやや緩やかな形状とし、2輪用は4輪用より65m奥で曲率は4輪よりきつい
2004年:ヘアピン立ち上がりの200Rに2輪専用のシケインを設置

 航空写真でもコースレイアウトの変遷を追ってみよう。国土地理院が提供している空中写真は毎年撮影されるものではないようで、地域によっては10年、15年に1度ということもあり、コースレイアウトが1983年、1984年、1985年と続いても、それぞれの写真は入手できなかった。まとめて数年分の変遷となるが、その様子を見ていただきたい。

1966年:遊園地とサーキット道路ができている(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
1983年:最終コーナー手前にシケインが設置された(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
1987年:この年からF1を開催。スプーン(1984年)、1~2コーナー(1985年)、デグナー(1987年)が変更された(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
1992年:シケインが最終コーナー側へ(1991年)(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
2003年:S字、逆バンク、ダンロップのランオフエリアを拡張(2001~2002年)、シケイン、130Rも変更(2003年)(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
2011年:2輪専用シケイン(2004年)、シケインは現在の4輪、2輪を別のシケインに(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
2020年:最新の航空写真はGoogleマップで閲覧できる(Googleマップ)
1966年~2020年の遍歴

 新型コロナウイルスの影響で長らく休園していた鈴鹿サーキットが5月29日より順次営業再開となる。本格的なレース開催・観戦はもう少し先になりそうだが、明るい兆しが感じられるようになってきた。秋にはレース観戦ができることを期待しよう。

奥川浩彦

パソコン周辺機器メーカーのメルコ(現:バッファロー)で広報を経て2001年イーレッツの設立に参加しUSB扇風機などを発売。2006年、iPR(http://i-pr.jp/)を設立し広報業とライター業で独立。モータースポーツの撮影は1982年から。キヤノンモータースポーツ写真展3年連続入選。F1日本グランプリ(鈴鹿・富士)は1987年から皆勤賞。