奥川浩彦の「レースと写真とクルマの話」
第5回:日本のサーキットの変遷その2「鈴鹿サーキット」
2020年5月28日 08:03
レースシーズンの開幕が待ち遠しいモータースポーツファンに贈る「日本のサーキット変遷」シリーズ。前回の多摩川スピードウェイは「知らなかった」「まさか多摩川の河川敷にサーキットがあったとは!」と思われた人がいただろう。今回紹介する鈴鹿サーキットはCar Watchの読者で知らない人がいない、行ったことのある人がたくさんいるであろう日本を代表するサーキット。日本のモータースポーツの聖地と言って過言ではないサーキットだ。
前回の記事の最後に鈴鹿サーキットが建設される前の航空写真を掲載し「写真のどこにサーキットができるのか想像していただきたい」と書いたので、その答えをお知らせしよう。
鈴鹿サーキット稲生駅方面からイオン鈴鹿店方面に抜けるサーキット道路は影も形もないが、道伯町方面からサーキットのメイン駐車場の前、ガソリンスタンドのある鈴鹿サーキット前交差点、シケインのQ2スタンドの裏を抜けて逆バンクゲート方面へ下る道である県道643号線は、サーキットができる前から存在していたようだ。
では、鈴⿅市の丘陵地帯でサーキット建設が始まる前へ……「時を戻そう」。(※お笑い芸人のペコパ⾵に)
世界のHONDAへ
多摩川スピードウェイで1936年(昭和11年)に開催された第1回全国自動車競走大会に出場した本田宗一郎氏はアート商会浜松支店を従業員に譲り製造業の道へ。1946年(昭和21年)に本田技術研究所を設立。自転車の補助動力を製造・販売した。
1948年(昭和23年)に本田技研工業株式会社を設立。1958年(昭和33年)に「スーパーカブC100」を発売。1960年、スーパーカブ量産のため三重県鈴鹿市に鈴鹿製作所を開設。1960年度の生産台数は56万台を記録し、オートバイメーカーとして飛躍することとなる。
レース活動では1954年に国産車として初の海外遠征(ブラジル・インテルラゴス)を行なった。マシンはリアサスペンションのないオートレース用フレームに、2段変速OHVエンジン(6馬力)を搭載した「R125」。「MVアグスタ」をはじめとする海外勢は4段変速OHCエンジン(16馬力)、コイルスプリング式のリアサスペンションを搭載するなど技術力の差は圧倒的だった。
1955年にマン島TTレース出場を宣言。1959年にマン島TTレース初出場、1961年に初優勝をとげる。1960年からロードレース世界選手権にも本格参戦。1961年の開幕戦、スペインGP125ccクラスで初優勝。第2戦のドイツGP250ccクラスで高橋国光選手が日本人として初優勝した。
サーキット建設の道のり
海外レースに参戦を始めるも、当時の日本には舗装されたサーキットはおろか高速道路もなかった(日本初の高速道路、名神高速の栗東~尼崎が開通するのは1963年)。そこで鈴鹿製作所の近隣にサーキットを建設することになった。
当初は現在よりも北東の水田地帯での建設が予定されていたが、本田宗一郎氏の「田んぼをつぶしてはいかん。何もない山林原野を使え」の一言で現在の場所が候補地となる。1960年(昭和35年)8月にコースレイアウトの初期案が完成。修正を重ね1962年(昭和37年)1月に最終決定となった。
筆者は書籍などで、鈴鹿サーキットのコースレイアウト案の変遷は過去に目にしたことがあった。今回、執筆に際し鈴鹿サーキットから提供いただいた「鈴鹿サーキット モータースポーツ30年の軌跡(以下:30年史)」(1992年)で、現在より北東にレイアウトされた原案の地図を初めて見ることができた。せっかくなので原案のコースを現在の航空写真に重ねてみた。
建設の責任者となった塩崎定夫氏は1960年8月にコースレイアウトの初期案を作成。12月にヨーロッパのサーキットを視察し、オランダのホンダディーラーを介してザントフォールト・サーキットの支配人をしていたフーゲンホルツ氏にサーキットの設計と監修を依頼した。
フーゲンホルツ氏は1951年にFIA(国際自動車連盟)でモンツァ、ブランズ・ハッチ、ホッケンハイムリンク、ニュルブルクリンクなどの支配人たちとサーキット支配人連盟を創設し初代会長職を務め、イベント開催時の観客の誘導などサーキット運営のための詳細なマニュアルを整備した人物だ。コースアウトしたマシンやタイヤをポールと金網で減速させる「キャッチフェンス」を考案、FIAが初めてサーキットの安全規則をまとめる際も策定に参加している。
鈴鹿サーキットの設計に携わった後も、ゾルダー・サーキット(ベルギー)、ハラマ・サーキット(スペイン)などの新設サーキットを設計。1966年に改修を行なったホッケンハイムリンクは、2002年のヘルマン・ティルケ氏の設計による大改修で現在のレイアウトになるまで基本レイアウトは変更されなかった。
余談だが、筆者が多くの海外サーキット名を知ったのはマンガ「赤いペガサス」。1985年でF1開催が途絶えたザントフォールトや、1980年で途絶えたワトキンズ・グレン(US)といったサーキットは名前しか知らなかった。インターネットが普及しザントフォールト・サーキットのコースを見た印象は「1コーナー~S字が鈴鹿に似てる」だった。正しくは「鈴鹿が似てる」となるのだろう。2020年、F1グランプリ第5戦は35年ぶりのオランダ開催。ザントフォールト・サーキットがフェルスタッペン応援団でオレンジ色に染まるはずだったが、新型コロナウイルスのパンデミックのため開催延期となっている。
フーゲンホルツ氏は1961年の年明けに来日。前年に塩崎氏が作成した案をベースに1~2コーナーの形状、S字区間などのコースレイアウトを修正。コース設計を手掛けるだけではなく、建物などの付帯設備の配置、観客の導線、監視ポストの位置など、サーキット完成後を見据えたノウハウをサーキット側に提供。
翌1962年9月に鈴鹿サーキットは完成した。
初期のレース
サーキット完成直後の1962年11月にオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された。セニア350cc、セニア250ccクラスで優勝したのはジム・レッドマン選手。レッドマン選手は翌1963年に日本で初めての行なわれた世界選手権「第1回日本グランプリロードレース」でも優勝している。
第1回全日本選手権ロードレースのセニア50ccクラス決勝でトップを独走していたのは、この年の世界グランプリ50ccクラスチャンピオンのエルンスト・デグナー選手。4周目の立体交差手前の右80Rコーナー(当時第10カーブ)で突風にあおられ転倒。以後、デグナー選手が転倒したこのコーナーを「デグナー(カーブ)」と呼ぶようになった。
1963年5月には第1回日本グランプリ自動車レースが開催される。国際スポーツカーAクラスで優勝したのは「ロータス23」を駆るピーター・ウォー選手。ウォー選手も鈴鹿サーキットのリニューアルを記念して2009年に開催された“START SUZUKA”OPENING THANKS DAYに登場した。
読者の中で古くからのF1ファンは、レーサーとしてのピーター・ウォー氏より、ロータスのチーム監督としてセナ選手や中嶋悟選手の傍らにいたウォー氏を覚えているだろう。若き頃はレーサーとして活躍し、1964年の第2回日本グランプリ自動車レースではフォーミュラカーで争われたJAFトロフィークラスに「ロータス27」で参戦。マイク・ナイト選手(ブラバムBT6)に次ぐ2位となった。
当時のサーキットの様子を30年史の中からいくつか紹介しよう。また、第2回日本グランプリレースの映像も見ていただきたい。
コース改修
鈴鹿サーキットはコースの基本レイアウトはほとんど変わっていないが、安全対策で行なわれたレイアウト変更を図と航空写真で振り返ってみよう。
航空写真でもコースレイアウトの変遷を追ってみよう。国土地理院が提供している空中写真は毎年撮影されるものではないようで、地域によっては10年、15年に1度ということもあり、コースレイアウトが1983年、1984年、1985年と続いても、それぞれの写真は入手できなかった。まとめて数年分の変遷となるが、その様子を見ていただきたい。
新型コロナウイルスの影響で長らく休園していた鈴鹿サーキットが5月29日より順次営業再開となる。本格的なレース開催・観戦はもう少し先になりそうだが、明るい兆しが感じられるようになってきた。秋にはレース観戦ができることを期待しよう。