奥川浩彦の「レースと写真とクルマの話」

第7回:日本のサーキットの変遷その4「富士スピードウェイ(前編)」

1970年の富士スピードウェイ

 モータースポーツファンに贈る「日本のサーキットの変遷」シリーズ。今回紹介する富士スピードウェイは鈴鹿サーキットと同じくCar Watchの読者で知らない人がいない、行ったことのある人がたくさんいるであろう日本を代表するサーキットだ。東京からクルマで(渋滞がなければ)1時間チョットで行ける立地は大きな魅力となっている。

 また、日本の代表的なサーキットの中で、もっともコースレイアウトが変更されたサーキットでもある。さまざまなドラマを持つサーキットなので、今回は前編と後編に分けてお届けしたい。

日本でもっともコースレイアウトが変更されたサーキット

モータリゼーションの真っ只中にいた日本

 前々回紹介した鈴鹿サーキットが1962年、前回紹介した船橋サーキットが1965年、今回紹介する富士スピードウェイが1966年と、次々とサーキットが誕生した1960年代を振り返ってみよう。

 当時発売されたクルマを見ると、トヨタ自動車は1961年に「パブリカ」、1965年に「トヨタスポーツ800」、1966年に「カローラ」を発売。日産自動車は1960年に「セドリック」、1962年に「フェアレディ1500」、1965年に「シルビア」、1966年に「サニー」、本田技研工業は1963年に「S500」、1964年に「S600」、1966年に「S800」、マツダは1964年に「ファミリア」を発売している。

1961年発売、トヨタ・パブリカ(UP10型)。700cc、空冷2気筒OHVエンジン搭載。車名は108万通の公募によりパブリック・カーからの造語。コストダウンのためラジオ、ヒーター、燃料計、サイドミラーがなかった(トヨタ博物館展示車)
1965年発売、トヨタ・スポーツ800(UP15型)。790cc、空冷2気筒OHVエンジン搭載。1962年のモーターショーで「パブリカスポーツ」として参考出品。エンジンなどパブリカのコンポーネンツをベースに製品化。船橋サーキットのデビューレースで浮谷東次郎が優勝した(トヨタ博物館展示車)
1966年発売、トヨタ・カローラ(KE10型)。1077cc、水冷4気筒OHVエンジン搭載。この時代は2ドアセダンが大衆車の標準仕様だった。累計出荷台数は1997年にフォルクスワーゲン・ビートルを抜き世界1位(トヨタ博物館展示車)
1960年発売、日産・セドリック(30型)。1488cc、水冷4気筒OHVエンジン搭載。縦4灯ヘッドライト、サイドにまわり込んだフロントガラスが特徴(トヨタ博物館展示車)
1962年発売、日産・フェアレディ1500(SP310型)。1488cc水冷4気筒OHVエンジン搭載。2代目ダットサン・フェアレディとしてブルーバードのシャーシにセドリックのエンジンが載せられた(トヨタ博物館展示車)
1965年発売、日産・シルビア(CSP311型)。1595cc水冷4気筒OHVエンジン搭載。フェアレディ1500のシャーシに1600ccエンジンを載せ、フロンドディスクブレーキが採用された(トヨタ博物館展示車)
1966年発売、日産・サニー(B10型)。988cc水冷4気筒OHVエンジン搭載。セドリック、ブルーバードの下位、エントリーモデルとして製品化、カローラとは長年のライバルとなった。サニーもカローラ同様、発売時は2ドアセダン(トヨタ博物館展示車)
1963年発売、ホンダ・S500。531cc水冷4気筒DOHCエンジン搭載。1963年10月に発売し後継機のS600が1964年3月に発売されたため、500台ほどしか生産されなかった(ホンダコレクションホール展示車)
1964年発売、ホンダ・S600。606cc水冷4気筒DOHCエンジン搭載。F1、F2マシンのノウハウを取り入れレッドゾーン9500rpmの超高回転型エンジンだった(ホンダコレクションホール展示車)
1966年発売、ホンダ・S800。791cc水冷4気筒DOHCエンジン搭載。S500、S600に続き基本部分はそのまま排気量をアップ。米国向けに輸出も行なわれた(ホンダコレクションホール展示車)
1964年発売、マツダ・ファミリア(SSA型)。782cc水冷4気筒OHVエンジン搭載。1963年のライトバンに続き1964年にファミリアワゴン、ファミリアセダンが発売されたマツダ初の小型乗用車(トヨタ博物館展示車)

 道路事情は1964年7月に日本初の高速道路 名神高速道路の栗東IC(インターチェンジ)~尼崎IC71.1kmが部分開通。たった71kmだが、当時の様子はNEXCO西日本のWebサイトによると「時速100kmのスピードに車の性能が追いつかず、開通後10日間でオーバーヒートなど573件の故障車が発生した」そうだ。1965年7月に小牧IC~西宮ICがつながり、名神高速道路は全線開通。東名高速道路が全線開通するのは1969年だ。この時代、自動車が社会にも大衆にも広く普及し、日本はモータリゼーションの真っ只中にいた。

名神高速、1964年に栗東IC~尼崎IC、1965年に小牧IC~西宮ICが開通(Googleマップを加工)

 1960年代初頭、日本車の性能は世界に後れを取っていた。長時間の高速走行が可能な国産車を開発する必要があり、外国車の性能と遜色ない国産車の開発のためサーキットの建設に対する期待は高まっていた。1962年に建設大臣に就任した河野一郎氏(河野太郎氏の祖父)は、1964年に開催が迫る東京オリンピックに向けた道路や施設の整備を進める一方でサーキット建設を後押しした。

 サーキット建設に加え、同時期に茨城県谷田部町(現:つくば市)に高速周回路も完成(1964年)。1960年代後半は国産車の性能が大きく向上し、トヨタは1967年に「2000GT」、日産は1969年に「スカイライン GT-R」と「フェアレディZ」、マツダは1967年に「コスモスポーツ」、いすゞ自動車は1968年に「117クーペ」と、日本の自動車史にその名を刻む名車が登場している。

1967年発売、トヨタ・2000GT(MF10型)。1988cc水冷6気筒DOHCエンジン搭載。トヨタとヤマハ発動機が共同開発し、337台が製造された。発売価格238万円はカローラ6台分。2013年、海外のオークションで落札価格が1億円を超えた(トヨタ博物館展示車)
1969年発売、日産・スカイラインGT-R(PGC10型)。1989cc水冷6気筒DOHCエンジン搭載。合併前のプリンス自動車時代に開発を始めた初代GT-Rは、レース活動で輝かしい戦績を残した(日産ヘリテージコレクション展示車)
1969年発売、日産・フェアレディZ432。1989cc水冷6気筒DOHCエンジン搭載。3グレードが発売されZ、Z-LはSOHCエンジン、432は「4バルブ・3キャブレター・2カムシャフト」から命名された(トヨタ博物館展示車)
1967年発売、マツダ・コスモスポーツ(L10B型)。491cc×2水冷ロータリーエンジン搭載。世界初の実用・量産ロータリーエンジンを搭載。ツインローターとしても世界初。写真は1972年発売の後期(L10B)型(トヨタ博物館展示車)
1968年発売、いすゞ・117クーペ(PA90型)。1584cc水冷4気筒DOHCエンジン搭載。デザインはジウジアーロによるもの。日本で初めて電子制御燃料噴射装置を搭載した(トヨタ博物館展示車)

サーキット建設へ

 日本で自動車部品の輸入代理業をしていた在日アメリカ人、ドン・ニコルスの売り込みもあり、NASCARの開催を想定した「日本ナスカー株式会社」が1963年(昭和38年)12月に設立された。

 翌1964年(昭和39年)1月にNASCARと日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結。サーキット候補地の選定を開始し、1964年6月に静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地が選定された。

1962年、サーキット建設前の選定地。西ゲートと東ゲートを結ぶ道路は現在と同じ(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)

 コースレイアウトは、アメリカのフロリダ州デイトナビーチにあるデイトナ・インターナショナル・スピードウェイに似たトライアングル・オーバルを予定したが、1964年7月に来日し現地を視察したスターリング・モスの指摘により、富士山麓の傾斜地にオーバルコースの建設が困難と判明した。

デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ(Googleマップ)

 現在の富士スピードウェイの標高を国土地理院の地図で確認すると、グランドスタンド裏が593m、メインストレートが581m、ヘアピンが562m、ダンロップシケインが546m、東ゲート付近は490mとなっていて、グランドスタンド裏と東ゲートの標高差は100mを超えている。

グランドスタンド裏は標高593m
ヘアピンは標高562m
東ゲート付近は標高490m
旧コースの空中写真にトライアングル・オーバルを重ねるとこんなイメージ(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)

 1965年(昭和40年)にNASCARとの開催権契約を白紙とし、オーバルコースとヨーロッパ式のロードコースの折衷案が採用され建設を開始した。これを受け社名を「富士スピードウェイ株式会社」と改めた。

 アメリカのオーバルコースは「インディアナポリス・モーター・スピードウェイ」「デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ」「アイオワ・スピードウェイ」など○○スピードウェイという名称が多い。「富士スピードウェイ」の「スピードウェイ」という名称はオーバル計画の痕跡とも言えよう。

「富士スピードウェイ株式会社」の英語表記は当時から現在まで「Fuji International Speedway Co.,Ltd.」となっている。日本語表記にはないInternationalと最後のCompanyからI、C、Oを取って「FISCO」という表記は、最近は使われることが減ったが年配の読者ならご存じだろう。

 建設中の1965年7月8日に中心的存在だった河野一郎氏が他界。富士スピードウェイの副社長だった息子の河野洋平氏が政界入りをするために退職した。この影響で、サーキット近隣にある冨士霊園を保有していた三菱地所が富士スピードウェイに出資することとなり、計画当初から経営に関わっていた丸紅、毎日新聞社、富士急行は経営から離れ三菱地所に経営を託すことになった。

 三菱地所は三菱グループの中核企業。東京の丸ビル(丸の内ビルディング)、横浜のランドマークタワー、名古屋の大名古屋ビルヂング、大阪のグランフロント大阪などを保有。酒々井、あみ、佐野、御殿場、土岐、りんくうなどプレミアム・アウトレットも三菱地所によるものだ。

サーキット完成

 1965年12月、サーキットが完成した。コースの特徴は1.7kmのストレートとそれに次ぐ30度バンクだ。バンクを抜けると大きなS字を描いて現在のコカ・コーラコーナーの手前付近に戻ってくる。左250R、右100R、ヘアピンと続く。コース後半はヘアピンを立ち上がると現在と同じ300Rへ。そのまま大きな弧を描いてストレートに戻るシンプルなレイアウトだった。

完成間近のサーキット。コースはヘアピン、ピットなどは完成、グランドスタンドの工事はこれから(富士スピードウェイ提供)
完成したばかりのグランドスタンド(富士スピードウェイ提供)
完成間近のコントロールタワー(富士スピードウェイ提供)
1970年、サーキット完成後の写真(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)

 現在の一般的なロードコースと比べると、30度バンクを含む当時のコースレイアウトはかなり違和感がある。現在のオーバルコースのバンク角度を見るとインディアナポリス・モーター・スピードウェイは9度、ツインリンクもてぎは10度と、比較にならないレベルだ。

 ただし、1960年代の視点で見ると今感じる違和感は勘違いなのかもしれない。F1イタリアグランプリが開催されるモンツァサーキットも昔々はオーバルコースとロードコースの複合レイアウトだった。実際にF1でも1955年、1956年、1960年、1961年に複合コースが使用されている。モンツァサーキットでは1957年、1958年にアメリカからインディ500の出場マシンを招待して、オーバルコースで「500 Miles of Monza」というイベントも開催されている。

 この時代にはヨーロッパでもオーバルコースは特別なものではなかったのかもしれない。ただし、当時もオーバルコースは危険とされていて、モンツァのオーバルコースは1961年を最後にF1では使用されていない。

 モンツァサーキットの現在のロードコース(グランプリコース)は1周 6km弱だが、複合コース時代は10kmだった。現在の空中写真に当時のコースレイアウトを重ねてみた。スタートすると最初はオーバルに進入し、1周回ってロードコースのアウト側でストレートに合流。そのままストレートの観客席側を進んでロードコースを1周、パラボリカからストレートに戻りピット側を進んで2周目のオーバルに進むレイアウトとなっていた。

現在の空撮に旧10kmの複合コースのレイアウトを重ねて表示してみた(Googleマップ)

 モンツァサーキットのオーバルコースのバンク角度は富士スピードウェイと同じ30度とされている。ただし、モンツァサーキットも富士スピードウェイも、インディアナポリスやもてぎのオーバルとはバンク形状が異なっている。その形状はリング状のパイプを切り取った、あるいはスノボーのハーフパイプが曲がっているようなイメージで、バンクの下部は傾斜が緩く、上部にいくほど急勾配となっている。最上部が30度と思われるが、どちらのオーバルも上部は切り立った崖のように見える。

 モンツァサーキットのオーバルコースは現在も残されていて、レズモとアスカリシケイン中間にある立体交差の上はオーバルコースだ。2020年のWRCモンツァ大会ではオーバルコースの一部がSSで使用されたので、映像を見た読者もいるだろう。

 余談となるが、当時のモンツァサーキットのオーバルコースで行なわれたレースの雰囲気は映画「Grand Prix」で見ることができる。アメリカで1966年、日本では1967年に公開された映画で、1966年に開催されたF1グランプリの9戦中6戦に撮影チームが帯同し、実際のレースシーンと映画用に撮影したシーンをつなぎ合わせて構成されている。映画のイタリアグランプリは、演出としてF1では1961年を最後に使用されていなかったオーバルコースのバトル映像を見ることができる。1967年にこの映画を見た人は富士スピードウェイの30度バンクに違和感はなかったと想像される。

映画「Grand Prix」パッケージ

 筆者は映画好きではないので「この男女のドラマはいる?」という印象だが、当時のコースの映像には引き込まれた。映画も3時間弱と長めなのだが、Blu-rayディスクには1時間を超える特典映像が付く。これが秀逸で、ネット配信で本編を見た人でもこの特典映像は見る価値がある。

1時間を超える特典映像が凄い

 この時代のコースは現在とかなり違う。例えばモナコの映像では「おぉヘアピンの正面にロウズホテルがない」「トンネル短~い」「プールもラスカスもない」「ピット狭い」と、ストーリーとは関係ない部分に目が釘付けとなるだろう。

 スパ・フランコルシャンは14kmの市街地コース時代。映像を見ると市街地コースではなく、本当に市街地。ガードレールもなく民家の軒先をF1マシンが駆け抜ける様子はマン島TTのF1版といった感じだ。映画のスタートシーンは1966年のベルギーグランプリの実際のシーンが使われている。

 主要な登場人物はジェームズ・ガーナー、イヴ・モンタンなどの俳優だが、グラハム・ヒル(デイモン・ヒルのお父さん)、ジャック・ブラバム、ファン・マヌエル・ファンジオ、フィル・ヒル、ブルース・マクラーレン、ヨッヘン・リントなどがF1ドライバー本人役で登場している。

日本を代表するサーキットへ

 1965年12月にサーキットが完成し、年が明けた1966年(昭和41年)1月3日にオープン。3月12日にアマチュアライダーによる2輪レースが開催され、3月27日に行なわれた4輪のクラブマンレースでは、F1世界チャンピオンのジム・クラークがデモ走行を行なった。

来日したジム・クラーク(富士スピードウェイ提供)
フォーミュラカーでデモ走行を行った(富士スピードウェイ提供)
グランドスタンド前を走るジム・クラーク(富士スピードウェイ提供)

 そして、5月3日には第3回日本グランプリが完成間もない富士スピードウェイで開催された。1963年、1964年と鈴鹿サーキットで開催され、1965年は中止された日本グランプリが舞台を富士スピードウェイに移した。日本グランプリは、途中2回の中止を挟み1975年まで10年間富士スピードウェイで開催されることになる。

 東名高速が開通するのは3年後の1969年。それでも事実上のこけら落としと言える日本グランプリは決勝日に9万5000人の観客が訪れたという。サーキットの場所は静岡県なので関東とは言えないが、現在の国道246号の神奈川県との県境から約10kmの立地は、当時の関東圏のファンには大きな魅力だっただろう。時代はモータリゼーションの真っ只中とあって、日本グランプリは多くの人が注目するレースだったと思われる。レースは日産との合併を8月に控えたプリンス自動車のR380が優勝、プリンス自動車として有終の美を飾った。このレースの映像はYouTubeで「第3回日本グランプリレース」と検索すれば見ることができる。

プリンス自動車のR380(トヨタ博物館展示車)

 日本グランプリ以外にもこの年の10月には「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース(通称:インディ富士200マイル)」、1968年、1969年には「ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース(通称:日本Can-Am)」など大きなレースが次々と開催された。1967年、1968年には24時間耐久レースも開催された。また、1971年には「富士グランチャンピオンレース(富士GC)」もスタートするなど日本を代表するサーキットとなった。以下、富士スピードウェイから提供いただいた写真で当時の様子を見ていただきたい

1968年日本グランプリ。ペアピンの観客の数が凄い。赤い1号車はトヨタ7(細谷四方洋)
1968年日本グランプリ。手前が1号車がトヨタ7、後方18号車は日産R381(高橋国光)
1969年JAFグランプリ。30度バンクの観客席からの風景
1969年JAFグランプリ。30度バンクで事故の多かった進入部分
1969年ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース(通称:日本Can-Am)。左回りで開催された
1969年ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース。優勝したトヨタ7(川合稔)8号車
1970年JAFグランプリ。入場ゲートに並ぶ車列
1970年JAFグランプリ。現在のコカ・コーラコーナー付近の風景。S字と250Rに挟まれる駐車場、コース沿いの人並みが見られる。手前のNETテレビ、10と書かれた中継車は日本教育テレビ、現在のテレビ朝日の車両
1970年JAFグランプリ。優勝したジャッキー・スチュワートのブラバムBT30
1970年JAFグランプリ。表彰台に立つジャッキー・スチュワート。前年にF1で年間チャンピオンを獲得している
1971年富士GC第3戦。初年度はエンジン排気量に制限がなく、二座席レーシングカーやフェアレディZなどが混走した
1971年富士GC。初代チャンピオンを獲得した酒井正のマクラーレンM12
1971年富士GC。風戸裕のポルシェ908MK-II
1971年富士GC。田中弘のシェブロンB19
1972年富士GC。先頭1号車は酒井正(マクラーレンM12)、背後に高原敬武(スタンレーT280)、69号車の生沢徹(GRD S72)、18号車の鮒子田寛(シェブロンB21P)が続く
1973年日本グランプリ(全日本F2000選手権)。左まわりで開催された。優勝は18号車(右端)の黒沢元治(マーチ722 BMW)

死亡事故とコース改修

 筆者がレースに興味を持ったのは1970年代。初めてサーキット観戦したのは1981年3月の富士GC開幕戦。40年前だ。当時の富士GCは高橋国光、星野一義、中嶋悟、松本恵二などの国内トップレーサーが参戦していて、全日本F2選手権と並ぶ人気レースだった。富士GCのサポートレースとして行なわれていた「スーパーシルエット」も、見た目が派手でサポートレースとは思えない人気があった。

サポートレースを超える人気だったスーパーシルエット。星野シルビアvs長谷見スカイラインvs柳田ブルーバードの争いはエキシビションっぽさ満載で撮るのも楽しかった。写真はトミカスカイラインターボ(長谷見昌弘)

 長年レースを見ている人には当然だと思うが、残念ながらレースに事故はつきもので、筆者はリアルでも映像でも多くの事故に遭遇してきた。

 映画「Grand Prix」の1960年代のレース映像を見ると、シートベルトなし、ガードレールなし、ピットウォールなしなど「それ危ないでしょ」と思うシーンは珍しくない。そんな筆者も知らない大昔、筆者が観戦を始めたひと昔前、最近と、時代の流れとともにマシンもサーキットも運営も改善され、レースはかなり安全性が増した。改善のいくつかは、事故が起こってからなされたものだ。

 日本の代表的なサーキットの中で、もっともコースレイアウトが変わったのは富士スピードウェイだ。その背景には悲しい事故の歴史がある。

 富士スピードウェイで最初の死亡事故は、第3回日本グランプリの午前中に行なわれたTSクラスで永井賢一が30度バンクを飛び出し帰らぬ人となった。30度バンクでは1973年の富士GC最終戦で中野雅晴、1974年の富士GC第2戦で風戸裕と鈴木誠一の2人が死亡、選手や観客6人も重軽傷を負う大事故が起き、この年で30度バンクは使用されなくなった。ひと足先に30度バンクの使用をやめたモンツァサーキットも危険すぎるという声と事故がきっかけだった。

1975年の富士スピードウェイ。使用されなくなった30度バンクはそのままの姿(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)

 1983年には2人のレーサーが命を落とすこととなる。5月の富士GC第2戦の練習走行で佐藤文康が最終コーナーの進入付近でコースアウトし亡くなった。10月の富士GC最終戦の決勝で高橋徹が最終コーナー出口でスピン。後ろ向きになった瞬間にグランドエフェクトカー(ウイングカー)は舞い上がり、コクピット側から観客席のフェンスに激突。高橋徹と観客1名が亡くなる事故となった。テレビ中継される富士GCの決勝中の事故だったので、映像とともにニュースでも大きく報道された。

1983年富士GC最終戦のオープニングラップの250R。高橋徹は星野一義に次ぐ2位を走行。2周目の最終コーナーで宙に舞った(筆者撮影)

 当時のコースレイアウトはヘアピンを立ち上がると300R、最終コーナー(150R)と高速コーナーの連続だった。シーズン中には、高橋徹とほぼ同じ場所で松本恵二のマシンが宙に舞う事故も発生していた。また、高橋徹の事故の前日、100Rでコースアウトした片山義美のマシンが舞い上がりコース外に落下した。死亡事故にはならなくても高速コーナーと当時の狭いエスケープゾーンは大きな事故を生む要因となっていた。

1983年富士GC最終戦の土曜の予選で片山義美が100Rでコースアウト。マシンは舞い上がりコース外に落下した(筆者撮影)
同じ写真をトリミング。マシンの上がリアウイング。下がフロントで左フロントタイヤが見える
マシンは回転しながら底部を見せ崖下に消えていった。前の写真はレース雑誌に送って誌面掲載されたが、この写真は初公開

 1983年の事故をきっかけに最終コーナーの速度を抑えるため、1984年から300Rの先にダンロップシケインが設けられた。その後も1986年には1コーナーが30Rと60Rの複合コーナーへ。1987年には100Rの手前にサントリーシケインが設置された。2つのシケインはサントリーシケインがAコーナー、ダンロップシケインがBコーナーと呼ばれ、現在でもAコーナー、Bコーナーと言う人がいる。また、1990年にはヘアピンを立ち上がったところに2輪専用MCコーナーも設置された。

1984年、最終コーナー手前にシケインが設置された(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
1986年、1コーナーが30Rと60Rの複合コーナーに変更された(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
1987年には100Rの手前にシケインが設置された(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)
1990年にはヘアピンの先に2輪専用MCコーナーも設置された(国土地理院の空中写真閲覧サービスを加工して掲載)

 30度バンク閉鎖後も変貌を続けた富士スピードウェイだが、その間も1976年、1977年にはF1を開催、1982年には世界耐久選手権(WEC)を開催するなど、世界レベルのレースが呼べるサーキットだった。

1982年からWECが開催された。写真は1983年に撮影

 しかし、ご存じのように1976年のF1世界選手権イン・ジャパンは悪天候に見舞われ、1977年はロニー・ピーターソン(Tyrrell)の右リアタイヤに左フロントタイヤを追突させたジル・ヴィルヌーヴ(Ferrari)のマシンが跳ね上がり、側転状態でコースアウト。観戦禁止エリアに進入していた観客とそれを排除しようとしていた警備員が亡くなった。結局この2年で日本でのF1開催は長い中断となった。

 富士スピードウェイは国際格式のサーキットとして国内外で知名度は高かったが、1987年から鈴鹿サーキットでF1グランプリが開催され、1990年にはTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)、オートポリス、1997年にはツインリンクもてぎがオープン。これらのサーキットと比べると施設の老朽化は明らかだった。

 前編はここまで。後編は劇的に変貌をとげた富士スピードウェイと最新情報を紹介しよう。

奥川浩彦

パソコン周辺機器メーカーのメルコ(現:バッファロー)で広報を経て2001年イーレッツの設立に参加しUSB扇風機などを発売。2006年、iPR(http://i-pr.jp/)を設立し広報業とライター業で独立。モータースポーツの撮影は1982年から。キヤノンモータースポーツ写真展3年連続入選。F1日本グランプリ(鈴鹿・富士)は1987年から皆勤賞。