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日産の歴史的車両を復元する「名車再生クラブ」、今年は「NISMO GT-R LM ルマン仕様」をレストア

R33・R34商品主管を務めた渡邊衝三氏も出席してキックオフイベントを開催

2015年5月30日開催

名車再生クラブのメンバーと今年度のレストア車両「NISMO GT-R LM ルマン仕様(GT-1クラス、22号車)」

 日産自動車の歴史的車両を復元する「名車再生クラブ」は5月30日、神奈川県厚木市にある日産の技術開発拠点「日産テクニカルセンター」において、今年レストアする車両を発表するとともに、キックオフイベントを開催した。今年度のレストア車両は1995年のル・マン24時間レースで総合10位(クラス5位)に入賞した「NISMO GT-R LM ルマン仕様(GT-1クラス、22号車)」。

 2006年に発足した名車再生クラブは、日産テクニカルセンター内の開発部門に属する社員を中心とする活動。日産テクニカルセンターは開発部門の中心拠点であり、約1万人の従業員が属する。デザイン、車両試作、車両実験、ブレーキ実験、シャシー実験、電装実験、エンジン実験、駆動系実験などが行われていて、再生活動に重要な各ユニットの専門部署がそろっているということが、名車再生クラブが日産テクニカルセンターを拠点としている主たる理由になっている。

 そんな名車再生クラブの活動目的は、「日産の財産である歴史的な車両を当時の状態で動態保存する」「再生する過程で、当時のモノ造りを体感し、技術的な工夫や設計の考え方を学ぶ」こと。日産社員のみならず、派遣社員や関連会社からもメンバーを募り、現在は約100名ほどのメンバーが属する。活動は就労時間外に行われ、主に会社の休日を利用して行われているという。

 レストアする車両の選定については、クラシックカーは専門店が、生産車は通常の修理工場が、純レースカーはNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)がそれぞれ実施できるということで、市販車をベースにするモータースポーツ車両がターゲット。年に1台レストアすることを基本に、毎年年末に行われている日産ファン感謝イベント「NISMO FESTIVAL」での発表を目指している。

これからレストアが始まる「NISMO GT-R LM ルマン仕様(GT-1クラス、22号車)」。パッと見はとても綺麗だが、リアのアンダーカバーがなくなってしまっているのでイチから作らなければならないほか、ヘッドライトはHIDを採用しているが、「おそらくワンオフで作られているためユニットがない」とのことで、このあたりの作業で時間を要するのではないかとのこと
エンジンは直列6気筒DOHC 2.6リッターツインターボの「RB26DETT」。ル・マン24時間レース後にエンジンに火は入れられているがバラした形跡はないとのことで、どのような状況になっているかは開けてからのお楽しみ

 再生に対するポリシーは以下の5点。

1.オリジナル部品を極力オーバーホールして使用する
2.やむを得ず新規部品調達する場合も、時代考証上もっとも近いものを使用する
3.改造報告書、当時の写真などをベースに、オリジナル状態に戻すことを第一義とする(レース車はスタート状態に、ラリー車はゴール状態にする)
4.ブレーキ配管、燃料配管については安全の観点から最新スペック(テフロン&ステンメッシュ含む)を用いる
5.再生の仕様/内容については、部品入手経緯や仕様選定の根拠を含めて記録し、後の資料とする

 名車再生クラブは以上5点のポリシーをもって、2006年に「240RS(1983年 モンテカルロラリー仕様車)」、2007年に「スカイライン 2000 GT-R(1972年 東京モーターショー出品車」、2008年に「サニー 1400 Exellent(1973年 日本グランプリ優勝車)」、2009年に「ダットサン 2000GT(1982年 サファリラリー優勝車)」、2010年に「たま電気自動車(1947年)」、2011年に「富士号・桜号(1958年 モービルガス豪州一周ラリー参加車両)」、2012年に「プリンス自動車 スカイライン GT(1964年 第2回日本グランプリ 2位入賞車両)」、2013年に「ダットサン 240Z(1971年 サファリラリー優勝車両)」、2014年に「ダットサン ベビイ(1965年)」を再生している。

レストア車両にNISMO GT-R LM ルマン仕様(GT-1クラス、22号車)を選んだ理由
22号車のドライバーは福山英朗氏、近藤真彦氏、粕谷俊二氏が務めた
レストアに向けたスケジュール
2011年にレストアした「富士号・桜号(1958年 モービルガス豪州一周ラリー参加車両)」の再生時のようす
2006年にレストアした「240RS(1983年 モンテカルロラリー仕様車)」ではYAZAKIからヒューズボックスが、ナイルスからフォグランプスイッチが提供された
車両のレストアにおいては報告書や資料をもとにオリジナル状態に戻される。写真は「240RS」の例
再生車の仕様は記録され、後の資料として残される
部品サプライヤーの協力も不可欠
2010年にレストアした「たま電気自動車(1947年)」は、クラブではじめて触れる車体構造「木骨鉄板構造」だったため、レストアにもっとも時間を要したという
2014年にレストアした「ダットサン ベビイ(1965年)」は欠品が多く部品作製に時間がかかった
「ダットサン ベビイ」の資料や部品集めにも苦労したという
当時車両の製作などに携わった先輩方からも情報収集を行っている
日産のテストコースのある「グランドライブ」で動体確認も
各車エンジンは全分解される
これまでレストアしてきた車両

R33・R34商品主管を務めた渡邊衝三氏も参加

 そして今年は「NISMO GT-R LM ルマン仕様(GT-1クラス、22号車)」を再生することを発表。キックオフイベントには名車再生クラブのメンバーが出席するとともに、クラブ代表の木賀新一氏、日産の歴史的車両を保管している日産ヘリテージコレクションの中山竜二氏、R33・R34商品主管を務めた渡邊衝三氏、22号車の担当エンジニアを務めた山洞博司氏ら豪華なメンバーが登壇し、メンバーに応援メッセージを送った。

 はじめに登壇したクラブ代表の木賀氏は、2014年にレストアしたダットサン ベビイは「ワクワクしないクルマだった(笑)」と評しつつ、「今年はレース好きの皆さんがワクワクするような車両になってよかった」とし、今年レストアする車両をNISMO GT-R LM ルマン仕様にしたことについては、今年日産がル・マン24時間レースに復帰することから同レースに縁のある車両が選ばれたとのこと。木賀氏は「今回の車両は見た感じが相当綺麗で、レストアするところが限られるかもしれないが、エンジンは24時間走ってきてどうなっているのか楽しみ。車両の資料が比較的残っていると思うので、完璧に再生させて年末のNISMO FESTIVALでお披露目したいと思っている」とコメント。

 また、日産ヘリテージコレクションの中山竜二氏は「NISMO GT-R LM ルマン仕様を手掛けると聞いたのは最近の話で、今まで手掛けた車両とは次元が違うのでびっくりした。これまでもラリーカーやツーリングカーがあったが、改めて名車再生クラブのすごさをひしひしと感じているところ。今年はLMP1復帰ということで、ル・マン24時間レースでワークスチームがどのような走りをするかドキドキしているが、再生前の束の間のドキドキも皆さんと一緒に楽しみたい」と、今年のル・マン24時間レースとレストアへの期待感を示した。

クラブ代表の木賀新一氏
日産ヘリテージコレクションの中山竜二氏
R33・R34商品主管を務めた渡邊衝三氏が当時を振り返った
R33スカイラインの開発時、R32 GT-Rの完成度や評価が高かったことから「GT-Rはまた20年後くらいに作ってはどうか」と言われたエピソードなどを語った渡邊氏

 一方、R33・R34商品主管を務めた渡邊衝三氏は、「私が商品主管になったのは1992年で、その時点でR33 GT-Rを出すか出さないかはっきり決まっていなかった。言われていたのは1993年に発表したR33が大きくなったので、『基準車のクーペとセダンはR33でいいが、GT-RはR32を継続生産してはどうか』と社内から強い声があった。社内でもR32 GT-Rは非常によくできたクルマと評価され、約4万5000台を売った大ヒット商品になった。そういう横綱は滅多に出ないので、『GT-Rはまた20年後くらいに作ってはどうか』と社内から言われ愕然とした」と当時を振り返る。

 しかし、R33もまたヒット商品にするためにはGT-Rの存在が必要不可欠ということで、「ハードウェアとして性能向上させる自信はあったが、そのほかにイメージアップさせてR32 GT-Rのお客様に“R33 GT-Rはいいな”と思っていただかなければならない。R32 GT-Rはスパ・フランコルシャン24時間レースやニュルブルクリンク24時間レースで活躍していたので、“GT-Rはハコで速い”というのが伝統だろうということでル・マン24時間レースに出場することを決めた」という。

 そしてチームを率いていた水野和敏監督(元日産自動車のR35 GT-R開発責任者)についても触れ、「それまではレーシングカーというのはスティントごとにドライバー交代や給油、タイヤ交換を必ず行っていたが、彼(水野氏)はタイヤを2回持たせるという作戦をとった。要するに、決められた24時間の中でどれだけサーキットの上を走っている時間を取れるか、それが決め手になるということで、ピットインタイムを短くする画期的な作戦だった」と当時の水野氏の手腕を振り返った。

 また、ル・マン24時間レースで印象に残っている事柄として、NISMOの第2代社長 安達二郎氏がル・マン24時間レースに出場するということで応援組織「クラブ ル・マン」を設立したこと、当時22号車でドライバーを務めていた福山英朗選手について「彼がレースの終盤にピットインして車両を降りたら脱水症状で痙攣していたのを見て、非常に過酷なんだなということがよく分かったし、よくぞピットまで戻ってきてくれたと感じた」と当時の感想を述べるとともに、「NISMO GT-R LM ルマン仕様はエポックメイキングなクルマだったと思っているので、ぜひ皆様のお力でクルマをピカピカにしていただければと思う」と語っている。

22号車の担当エンジニアを務めた山洞博司氏

 22号車の担当エンジニアを務めた山洞博司氏は、「このクルマはル・マン24時間レースに出場する目的の1つとして、24時間走り切ってクルマ作りに活かせるさまざまなデータを取るという宿命もあったので、N1仕様という標準車に近い車両で走り切る必要があった。22号車と23号車は基本スペックは同じで駆動方式は2WD仕様。それ以外にもトランスミッションとエンジンは量産のままで出場している」と車両コンセプトについて紹介。

 また、22号車と23号車の製作にあたっては、通称“サティアン”と呼ばれるNISMOの工場で実施したといい、「『この部品が取れちゃったらどうなるんだろう』とか『この部品はこういう形で大丈夫なんだろうか』といった、みんなで知恵を出し合いながら“持つクルマ”を目指してボルト1本ずつ締め方などを考えながら製作した。そんなところがこのクルマの成果につながったのではないか」と、製作時のこだわりについても言及するとともに、「私たちがいつも思っているのは、ドライバーもお客様だということ。お客様がちゃんと安心して走れるクルマで、24時間走らなければならないので楽しくラクに走れなければならないというところを考えた。それが日産の市販車がお客様の元に届いたとき、『やっぱり楽しいよね』というところにつながっていかなければならないのかなと思っている」と、レースで得たノウハウが市販車に活かされるという、日産車のこだわりについても紹介された。

(編集部:小林 隆)