日下部保雄の悠悠閑閑

ダイハツ「シャレード」との思い出ラリー

ツアー・オブ・マレーシアでSS中のシャレード

「シャレード」というダイハツのコンパクトカーがあった。すべてがダイハツオリジナルでコンセプトも斬新。面積5m 2 の中にすべてを押し込んだ合理的な設計は、デザインにも表われていた。

 ラリーでお世話になっていたDCCSでは当時は1.6リッターに排気量をアップしたシャルマンを使っていた。実際に寺尾慶弘さん率いるDCCSのラリーカーはシンプルだがよく作られており、FRの1.2リッターコンソルテクーぺ(スターレットのダイハツ版)は今でもベストハンドリングカーだと思っている。寺尾さんにクルマのことをよく教えてもらったのは今でも感謝している。

 1978年からは「シャルマンとシャレードを両立させて使うことになるのかなぁ」と思ってもいたが、すでにシャルマンはマーケティング上の使命を終えており、ある日ドナドナされていってしまった。2年間苦楽を共にしたシャルマンと別れるのはつらかったが、DCCSの手によるちっちゃな1.0リッターカーがどんな走りをするのかどんな走りをするのか期待も大きかった。

 不安な部分は、600kg台の軽量車でも、チューニングができない1.0リッターの60PSでは限界があったことで、上りになるとクルマの中で駆け出したいほど非力だった。よかったのは軽さを活かせた時で、例えば滑りやすい雪のラリー、あるいは下りではコーナーにオーバースピード気味に入っても何とかなるありがたさがあった。

 足まわりはシャレードに少し硬めのセッティングで、テストを重ねてバランスのよいものになっていた。最初のラリーはスノーの地方戦で、“こんなものかな”と作ったラリーサス以外、ステアリングもシートもすべてノーマル。雪の中で2本スポークのステアリングをグルグル回していると、どこを向いているのか分からず谷に向けて走って焦ったことがあった。おまけにシートは腰が痛くなり疲れたラリーだった。それでも何とかトロフィーをもらってDCCSに帰った。今、考えてみればDCCSとして初めてのシャレードがどれだけのポテンシャルを持っているのか、テストして来いという意味だったのだと思う。

 で、最も印象に残るのはシャレードによる初めての海外遠征、マレーシアだ。シンガポールの「シンテンセン」という代理店から、シャレードのプロモーションの一環として「ツアー・オブ・マレーシア」への打診があり、現地チームとオーストラリアチームの3台体制となった。1979年のことだ。ドライバーとして初めての海外ラリーはもう期待しかなかった。当時のマレーシアラリーはアジアを転戦してくるチームが多く、それなりに活況がある国際競技だった。

 シンガポールで整備されたラリー車をマレーシアのクアラルンプールまで自走し、さらにリゾート地のイポまで移動しての本格的なスタートだった。

クアラルンプールでの車検

 この時のラリー車は国内仕様と違って、1.0リッター3気筒シングルキャブは変わらないが、DCCSらしいチューニングがされており、軽く高回転域まで回るエンジンはまるで別物だ。それに、ミニカーレースで使われていたマックス用の超クロスレシオが組み込まれており、少ないパワーを有効に使えた。

IPOからの本格的なスタート

 コースはゴム林の中、森林地帯でほぼグラベル。中には「コースアウトしてもクルマから出るな、毒蛇の巣があるぞ」なんてSSもある。

 ちなみに「ゴムの木はバネみたいだから、当たっても跳ね返ってくるから大丈夫だ」と言われて実践した奴がいるが、当然ながらクルマは中破した。ただの木だった。

シンガポールチームがテスト中にゴムの木が本当に柔らかいのか試した結果、ゴムの木は硬かった。本番まで時間はなかったが、サービスメカニックの力技できれいに修復して入賞。よきライバルでした

 ラリーが始まると、シャレードはウェットでひどく滑りやすくなったコースでもFFの軽量ボディのおかげで自在に走り、ヨコハマの「ラリーマスター」もドンピシャリで、SSでも上位で踏ん張れた。

サービスポイントで寺尾さんから指示を受けているところ

 トランスミッションのギヤ比は超クロスで、軽快なエキゾーストノートと共にオートバイのようにポンポンとシフトしていく。その代わり直線が長いと頭打ちになってしまい、しばらくアクセルを戻すのがもどかしかった。当時使っていたマーシャルの“バケツ”と言われたスポットライトはかなり遠くまで照射するが、コースマップ上にあるその先のコーナーまでは分からない。「行くとこまで行っちゃえ」と思えるのがシャレードのよさである。

 調子に乗って勝負所とアクセルを踏んだのが、例の毒蛇がワンサカいるSS。雨で超滑りやすくなっている。「白い路面は気を付けろ」と言われていたその白い路面で、曲がらずコースアウト! まわりには誰もいない。ナビの田口次郎を見ると一瞬だけ嫌な顔をしたが、シャレードから飛び出して前に回る! 普段力を出し渋るヤツだが、この時ばかりは蛇が怖いのとコースに戻りたい一心で力いっぱい押す。するとなんとシャレードはズズッと動きだした! 田口が慌てて飛び乗ってきたのは言うまでもない。多分相当怖かったんだと思う。

 それ以外にも、夜中にコースを横断する牛の群れの中を通過した時は、開いた窓から牛が首を突っ込んできて仰天したり、マレーシア名物の洪水にも遭遇したりと珍道中は続くが、シンガポールチームとも助け合って、夢中になれたラリーだった。

マレーシアは夕方になると雨で水が溢れる。今ではそんなことはないと思うが、当時は毎日だった。ターマックラリーでは必要ないけれど、ウェットのグラベルラリーではフロントのマッドガードは必需。この写真からも分かると思います

 結局このラリーでは最後の舗装の上りSSでバイオレットに追い上げられたものの、林の中での貯金が効いて逃げ切りに成功。めでたしめでたしとなった。

フィニッシュ後の記念撮影。左からナビの田口次郎、監督の寺尾慶弘氏、私、堀内メカ、阿部メカ、寺尾メカ

 新型コロナウイルスで動きが取れない中、今日は古いアルバムを引っ張り出してみました。Stay at Home.

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/16~17年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。