日下部保雄の悠悠閑閑

1990年INTER TEC

オートテック号とのバトル

「ツアー・オブ・マレーシア」から10年後、なんとグループAで全日本ツーリングカー選手権に出ていた。1秒を削り合うラリーは大好きだが、レースはコンマ1秒の勝負、相手が見えるのでまた違った面白さがある。

 1980年代半ばからシビックやミラージュ、ゴルフなどのワンメイクレースや耐久レースをラリーと並行して参加し、レースを勉強させてもらった後、1989年からサザンオールスターズのケガニさん(野沢秀行氏の愛称)が主宰するケガニ・レーシングでBMW M3に乗ることになったのだ。グループAは毎回グランドスタンドが溢れるほどの人気で、今のSUPER GTと状況が似ている。どんな時代だったかと言えば、バブルの後期で世の中は景気がよかったし、クルマではNSXやセルシオなどが登場し、1990年にはレースのために生まれたR32 GT-Rがデビューしたような頃でもある。

 私は1989年~1990年の2年間グループAに参加したので、同じサーキットでR32 GT-Rのデビューに立ち会えることとなった。

 M3は1988年までCOSMOカラーで土屋圭市選手が乗っていたマシン。それまでのレースの縁から、ドライバーは私とラリードライバーの山内伸弥君が担当することになった。チーフメカニックはシビックレース時代からズーっと付き合ってくれている大原健君。TUSKエンジニアリングでTUSKのラリー車や私のクルマを見てくれていた。大原君には双子の兄、康君がいた。何しろ瓜二つの大原兄弟なので、話がどうも噛み合わないと思っていると康君だったりして、面食らうことも少なくなかった。ま、どちらに頼んでも同じレベルで仕上げてくれるのでま、いいか。不思議なもんで意思が伝わるのである。

 さて、1989年の開幕戦、MINEサーキット(当時は西日本サーキット、今はマツダのテストコース)で初めてグループAのM3に乗った。ステアリング、ブレーキ、クラッチ、すべてが重く、パドックで動かすのも一苦労。こんなもの振り回せるんだろうかと思ったが、いざ本番となると何とかなるもんで、オートテック BMWの柳田春人先輩とちょっとしたバトルができたのは嬉しかった。オー! 面白いじゃないか! この年はポールも取れたし、新参者のシリーズ2位に満足!

1988年のオートテック号。最初から縁があったようです。残念ながらケガニ号はミニチュアになりませんでした

 チャンピオンを目指した翌年の1990年はリクルートの技術系求人誌 B-ingのサポートを受け、白と黒のシンプルなケガニカラーから爽やかなブルーのB-ingカラーになった。SUGOではラッキーもあって初優勝。オートテックのローランド・ラッツェンバーガー選手やADVANのウィル・ホイさんに伍してのレースだったので嬉しさもヒトシオ。しかし後に1994年のサンマリノGPでラッツェンバーガー選手が事故死した時はショックだった。

 で、シリーズタイトルを目指した1990年。最終戦までにオートテックに完全にリードされてしまったが、チャンピオンの目はまだ残っていた。こちらが優勝して、オートテックがリタイアすればの話である。11万人の大観衆の中で迎えたINTER TEC(富士スピードウェイ)はやはり高揚するものがあった。高橋健二さんのADVAN BMWはペースが上がらず、その後クラッチトラブルで脱落。後はラッツェンバーガー選手との激しいバトルが待っていたが、この日のラッツェンさんは荒れていた。ご存知のように富士のストレートは長く、スリップがよく効く。1コーナーのブレーキ競争で、オートテック号はブレーキを極端に遅らせて一瞬前に出たと思ったが、バランスを崩してボクを道連れに1コーナーのグラベルに突入! 「ラッツェン殿、ご無体な!」こちらはアウト側でブレーキもいっぱい。成す術なしで万事休す、と頭をよぎった。グラベルに入ると出てこれないのが通例だ。それでもスピードを落とさないように必死でアクセルと格闘していたら、奇跡的にコースに復帰できた。

 ラッツェンさんはその後もブレーキバランスに問題があるのか下位に沈んだが、根性で完走。チャンピオンはオートテックチームの手に渡った。

 力足らずで2年連続Div2でのシリーズ2位なのが残念。ボクはこの年でチームを離れたが、バトンを渡した茂木和男/小幡栄さんは1992年には無事チャンピオンを取って雪辱を晴らしてくれた。

FSWの1コーナーで押し出されて「ナニスンダ!」と泡を食っている私。オートテック号はB-ingがいたのでスピンもせず、グラベルの奥にも行かなかった
何とかグラベルの奥に行くまいとしてもがいている私
やっと離れて去ろうとしているラッツェンさんと、まだグラベルと格闘している私
置いてきぼりを食った私

 実はINTER TECでは予選でトランスミッションが壊れてしまった。チームの事情で、予選前には交換しなければならなかったのを予選まで引っ張ったのだ。そしてマニュアルどおり壊れた。すごい品質管理である。

 BMWはレーシングカーでもカスタマー用に分厚いサービスマニュアルが用意されており、定期交換部品については走行距離で決められている。使うオイルも指定されているので、これに沿っていればメカニカルトラブルはほとんど起こらない。プライベーターにとって、マニュアルに沿って作業していればトラブルへの疑心暗鬼から解放されるのは本当にありがたい。その整備解説書を見た時はさすがにレース屋、BMWだと感じ入った次第である。

 グループAが安定したレギュレーションの下に世界で行なわれていた結果、メーカーも部品供給も含めたサポート体制が出来上がっていたからの整備マニュアルだが、安定して続いているGT3やGT4にもこのようなサポートがあるのだろうか。

 ずーっと止まっている世界のモータースポーツ。景気と密接な関係があるだけに復活にはちょっと時間がかかりそうだが、その時を楽しみに待とう。

 今週も。Stay at Home.

ムクは新しい遊び場を見つけて和んでます

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/2020-2021年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。