日下部保雄の悠悠閑閑

あのころのル・マン24時間レース

「フェラーリ 250LM」。1965年のル・マン24時間レースでマステン・グレゴリー/ヨッヘン・リントの優勝車。波乱のル・マンだった。ワークスは参加を拒否したので、かたちとしては準ワークス扱いとなった

 まだ新型コロナウイルス禍が聞こえてこないころの1月に映画「フォードvsフェラーリ」を観てきた。

 映画内では「フォード GT40」が完成するまでのいきさつと、ル・マン24時間レース、それにまつわる人間模様が描かれていて、しばし感慨に浸り、危険と隣り合わせだったロマンに満ちた1960年代を思い出してみた。

 芸術品のような美しさに圧倒されたフェラーリは、少年のころに見た「自動車のアルバム」から始まる。繊細できらきら輝くホイールスポーク、ちょっとオレンジかかったフェラーリ・レッドは眩いばかりだったが、中でも強烈だったのは「フェラーリ 250LM」だ。

特徴的なリアウィンドウ

 それまでの伝統的なフロントエンジン、ロングノーズ・ショートデッキで流れるようなラインが完結していた「250GTO」のようなレーシングスポーツだったのだが、250LMの不条理さにしばし茫然すると同時に、がぜん興味が湧いてきた。まるでピックアップトラックのようなミッドシップの250LMのデザインは、数年後にデビューした「ロータス ヨーロッパ」にも影響を与えたのかもしれない。不調和の美は強烈で、そこに時代の変革を感じた。

 250LMは1965年のル・マン24時間にマステン・グレゴリー/ヨッヘン・リントが番狂わせの後に見事優勝している。エンジンはフェラーリ伝統のV12で、プロタイプスポーツの「P2」から持ってきたものだ。250LMの250は1気筒あたりの排気量が250ccだったことからきているが、実際は排気量アップされて1気筒あたり275ccで3.3リッターの生産車がほとんどだったので、275LMと呼ばれることが多い。

 ロードカーとレーシングカーの挟間にいた250LMはレースシーンを席巻することはなかったが、その憧憬は今でも消えることはない。

 250LMにはプロトタイプがあり、それがレーシングスポーツカーのP2だ。こちらはオープンコクピットのレーシングカーで、フェラーリが1965年までのワークスカーとして送り出していたモデルだ。確かにこのままクローズドボディを被せれば250LMになりそうだ。

250LMのベースとなったプロタイプスポーツの「P2」

 250LMはレギュレーションの申し子だった。1965年に当時のCSIがタイトルをGTにかけるとした規定に対して、フェラーリは250LMをGT規定として送り出したものの規定の生産台数に達せず、その年のル・マンに純ワークスカーは送らなかったと思う。しぶしぶCSIが認めた時はすでにレースマシンとして使命は終えていた。

 一方、フェラーリ買収に失敗したフォードが送り出したのはフォード GT40。曲面が工芸品のように組み合わされるフェラーリと違い、直線的で合理的なデザインは早急に流れる時の力を感じさせた。GT40の40は全高40インチの由来で、ペッタンコのマシンはフェラーリとは違った新大陸の魅力に満ちていた。

1969年ル・マン24時間レース勝者の、ジョン・ワイヤ率いるガルフカラーの「GT40」。5.0リッター制限のためV8 4.7リッターだが熟成され強かった

 挑戦者はいつも力がみなぎっている。映画の舞台となった1966年のル・マンには7.0リッターのビッグエンジンを搭載した「MkII」がなんとワークスチーム8台。4.7リッターの「MkI」はプライベーターの手で5台が参戦したというから、フォードのル・マンへの、そしてフェラーリ打倒への執念を感じさせ、悠々と1-2-3フィニッシュをやってのけた。

 フォード GT40の立役者だったケン・マイルズが、この1-2-3フィニッシュを行なうために優勝できなかったというのも、当時むさぼるように読んだ記事の記憶にある。そして、彼が次の「フォード GT MkIV」のプロトタイプだった“Jカー”開発中に事故死したのも大きなショックだった。

可動部分を外したGT40。ミニカーを見つけるとつい手が出てしまうんです

 1966年のル・マンは片やDOHC 4.0リッターV12の「フェラーリ 330P3」、片やOHV 7.0リッターV8のフォード GT40 MkII、搭載されるエンジンからしてもサラブレッドのようなフェラーリに対して、頑丈で現実的な大排気量エンジンを選ぶフォードの違いはそれぞれの国の美意識や文化を感じさせたレースだった。

 そして、アメリカからル・マンに挑戦したもう1台の異色のマシンがあった。シャパラルだ。テキサスの石油王、ジム・ホール率いるシャパラルは空力を大胆に取り入れ、セミATや素材にも新機軸を取り入れるなど、フォード GTとは違った斬新さを秘めていた。1966年から世界スポーツカー選手権にスポット参戦し、特に翌年となる1967年のル・マンで「2F」に高々と掲げられたハイマウントの可変ウイングに人々は驚いた。フォード GT40もさることながら、シャパラルはまるで異文化の黒船が来たような感じだったのではあるまいか。シャパラルのシボレーエンジンは、ル・マンでは7.0リッターのハイトルク版。予選で2位を獲得したが、決勝ではネックだったセミATが悲鳴を上げてリタイヤしてしまった。しかしシャパラルの与えたインパクトは大きい。

時代の寵児、「シャパラル 2F」。ハイマウントウイングが度肝を抜いた。3速ATを使っている

 ジム・ホールがレース活動を開始したのは1961年ごろ。アメリカのレースで手応えを掴み、次第にヨーロッパにも遠征して注目を集めたが、FIAが大排気量のマシンが増加するのを危ぶんで、1968年からエンジン排気量の制限を5.0リッターまでとしたために、シャパラルのスポーツカー選手権での活動は終わりを告げた。

 フロアと路面の間の空気を強制的に吐き出し、グランドエフェクトを目の当たりに見せるなど、シャパラルは時代の革命児だった。このあたりはその昔に旧友、三好正巳さんが編集してニューズ出版から出版した名著「Chaparral」に詳しい。

日下部保雄

1949年12月28日生 東京都出身
■モータージャーナリスト/AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員/16~17年日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
 大学時代からモータースポーツの魅力にとりつかれ、参戦。その経験を活かし、大学卒業後、モータージャーナリズムの世界に入り、専門誌をはじめ雑誌等に新型車の試乗レポートやコラムを寄稿。自動車ジャーナリストとして30年以上のキャリアを積む。モータースポーツ歴は全日本ラリー選手権を中心に活動、1979年・マレーシアで日本人として初の海外ラリー優勝を飾るなど輝かしい成績を誇る。ジャーナリストとしては、新型車や自動車部品の評価、時事問題の提起など、活動は多義にわたり、TVのモーターランド2、自動車専門誌、一般紙、Webなどで活動。