日下部保雄の悠悠閑閑
「ランチア ストラトス」の話
2020年6月1日 00:00
人が集まれない状況が続き、本来この時期に行なわれる発表会や試乗会は軒並み中止か延期になっており、前へ進めていない。その中でも次の模索が始まっており、発表会などはオンラインで行なわれることが多くなった。試乗会もボチボチと3密を避けてコンパクトに始められるようだ。やっと自動車を取り巻く業界も少しずつ動き出そうとしている。まだまだ遠い道のりが待っているように感じるが、前へ進めるのは嬉しい。
今週は「ストラトス」の話。ストラトスが活躍していたのはグループ4の時代、つまりグループBが始まる以前の時代だ。それまでのフィアットグループの主力ラリーマシンは「FIAT ABARTH 124 RALLY」で、1972年~1975年に第一線で活躍したが、戦闘力の点ではまだ不足していた。後を引き継いだランチア ストラトスは1974年から本格的にラリーに参戦し、瞬く間にWRCタイトルを席巻した。
グループ4のストラトスは、当時常識だった「連続する12か月で5000台の生産が求められたグループ3」をベースにしたグループ4とは別物で、ルール解釈を拡大して新たなラリー専用マシンを作り上げたのだ。ルールの隙間を狙って半ば強引ともいえるこの手法を編み出したのはランチアの闘将、チェザーレ・フィオリオだった。
軽自動車よりも短い2180mmという常識外れのホイールベースとワイドトレッドはまるで正方形のようなディメンションで、見るからに緊張感のあるドライビングを強いられそう。
なぜ、そんな話をしたかと言えば、取材でストラトスに1回だけ乗ったことがあるからだ。しかもデモカーとはいえアリタリア・カラーのマシンである。
試乗したのは夜の高峰林道で、ツイスティで上り勾配のきついターマックだった。セミスリックタイヤを履いたストラトスはまるで駒のように高峰を駆け抜けた。背中で聞く「フェラーリ ディーノ」から転用された横置きV6エンジンは本番車では290PSを出していたというが、デモカーは多分200PSぐらいだったのではないだろうか。きつい勾配の高峰ではそれほどパワフルに感じなかったが、メカニカルノートがなんとも気持ちよかった。シフトゲートのきっかりした感触も正確なドライビングを求められているようで背筋が伸びる。
それだけで工芸品のような精緻なレンズカットを持つキャレロのヘッライトはさすがに明るかった。補助ランプポッド(裏にはS.MUNARIとマジックで書いてあった)の向こう側に広がる白い景色が心に残っている。
セミスリックタイヤを履いていたのでステアリングはきっと重かったんだろうと思うが、それほど記憶にないところを見ると走り出してしまえば、軽いフロント荷重もあってそれほどでもなかったんだろう。モータースポーツ用のパワステなどない時代なので重いのに慣れていたのかもしれない。
ストラトスは高峰のツイスティなコースでもステアリングの応答性がシャープで、クイクイと曲がっていく。ショートホイールベース、ワイドトレッドの妙味でラリー専用車の実力の一端を見た思いがした。太いリアタイヤと大きな後輪荷重のためにグリップも高かったので、修正舵は全く必要なかった。当然ながら、これまで乗ったことのある量産車ベースのラリー車とは別次元のノリモノだ。こんなのと戦う他メーカーのWRCドライバーは大変だったと思う。
ボクはノートにメモするのに精いっぱいで、取材中のドライブのほとんどは綾部選手が、そして津々見さんがステアリングを握った。片や生粋のラリードライバー、片やワークスチームを渡り歩いたレーシングドライバーで、2人の運転の対照的な違いを見ることができたのも印象的だった。
ストラトスはいろいろな意味で強いインパクトを残した取材だった。