トピック

奥川浩彦の「F1大好き! 今年も鈴鹿に行くぞ」

第1回:30年間F1日本グランプリを観戦したオッサンの歴史は31年前のモナコから始まった

1988年F1日本グランプリで鈴鹿サーキットを走るアイルトン・セナ。マシンはマクラーレン・ホンダ MP4/4

 世界3大レースと呼ばれるF1モナコグランプリ、インディ500、ル・マン24時間が立て続けに開催される5月、6月はモータースポーツファンにとって特別な時期だ。今シーズンの各レースの決勝スタート時刻を日本時間で並べると、約3週間の間に世界3大レースが開催されことが分かる。

5月28日21時:モナコグランプリ
5月29日1時19分:インディ500
6月17日22時:ル・マン24時間

 今シーズンはそれぞれのレースの注目度が高い。F1はメルセデス1強時代が終わり、5戦を終えてベッテルとハミルトンが2勝、ボッタスが1勝。メルセデス3勝、フェラーリ2勝とがっぷり四つの状況で第6戦モナコグランプリを迎える。インディ500はフェルナンド・アロンソの参戦で注目度急上昇。ル・マン24時間はWEC(世界耐久選手権)で開幕から2連勝したトヨタが悲願の優勝をする可能性が高い。昨年のゴール直前の悲劇が記憶に残るだけにこちらも目が離せない。

 ちなみに筆者のプライオリティはF1>>WEC>>>>インディカーシリーズで、具体的にはF1は生中継で観戦、WECは録画を飛ばしながら観戦、インディカーシリーズはたまに見るだけだ。ル・マン24時間はWECの中では特別な存在で、特に昨年はテレビに釘付けとなった。他にプライオリティが高いのはMotoGPとSUPER GT。微妙なのがWRC、WTCCなどだ。そんなF1大好きな筆者の原点を紹介していきたい。

人生を変えた赤いペガサス

 話は1970年代にタイムスリップする。筆者のレースへの小さな興味は小学生の頃からだ。1970年代前半、富士スピードウェイの30度バンクを使ったレースをテレビで見た記憶がある。翌日には小学校の黒板に同級生と富士スピードウェイのコース図を書いていた。

 高校生の頃、1976年、1977年に富士スピードウェイで開催されたF1選手権イン・ジャパンは、やや理解を深めつつも、詳しいことは分からないままテレビ観戦をしていた。映画「ラッシュ/プライドと友情」のような背景を知るのはそれから何年も先のことだ。

 筆者とF1を結びつけたのは、1977年から少年サンデーに連載された村上もとか氏の「赤いペガサス」。マンガの連載とともに興味が深まり、1978年シーズンにマリオ・アンドレッティがチャンピオンを獲得したロータス78/79は今でも特別な思い入れを感じるマシンだ。

2013年の鈴鹿ファン感謝デーに登場したロータス78。筆者にとって特別なマシンなので、かなり興奮しながらシャッターを切った

 1979年に大学に入学し、F1熱はヒートアップ。インターネットなどなかった時代、大学図書館の英字新聞でF1の結果を週明けに確認し、1カ月ほどあとにオートスポーツ誌で詳細を知るようになった。雑誌の影響で国内レース熱も高まり、運よく男性誌の読者プレゼントに当選し、1981年3月にサーキット初観戦となった。富士スピードウェイで開催された「富士300キロスピードレース」のインパクトは絶大。これをきっかけに筆者は30年以上サーキットに通うこととなった。

 この年は富士グランチャンピオンシリーズを全戦観戦。翌1982年は日本初開催の「世界耐久選手権WEC-JAPAN」なども観戦。雑誌で読んだサーキット撮影の記事に触発されて一眼レフカメラを買ったのもこの年で、1982年11月の「富士ビクトリー200キロレース」で初サーキット撮影となった。

1982年11月の富士GCでカメラデビュー。レンズは70-210mmのズーム1本
優勝は星野一義。まともに撮れた写真はなかった。背景のピットが簡素
1982年のWEC-JAPANは観戦のみ。撮影は1983年の第2回から。ロスマンズ・ポルシェはかっこよかった。1号車はジャッキー・イクス/ヨッヘン・マス組。82年は優勝、83年は2位だった
1983年の優勝は2号車デレック・ベル/ステファン・ベロフ組。カメラ歴1年、そこそこ撮れるようになった

 社会人になる直前の1983年3月に開催された「全日本BIG2&4レース」が鈴鹿サーキットでの初レース観戦。振り返るとこのレースは中嶋悟が初めてEPSONカラーのマシンに乗り、伝説のレーサー高橋徹が初表彰台に立つなど日本のモータースポーツ史に残るレースだった。

中嶋悟+ホンダ+EPSONの歴史はこのレースから始まった。エプソンとモータースポーツの歴史を振り返る
F2デビューレースで表彰台に立った高橋徹
富士GCの最終戦オープニングラップ。1位星野一義に次ぐ2位が高橋徹。以下高橋健二、松本恵二、高橋国光の順で100Rへ。2周目の最終コーナーで高橋徹は宙に舞った

 社会人になってから数年は、富士GCシリーズ、全日本F2選手権、WEC、鈴鹿8耐など、年に10戦ほど観戦・撮影をするようになり、モータースポーツとサーキット撮影は筆者の生活の一部となった。一方、1983年の夏にホンダはスピリット・ホンダでF1に復帰。1984年にはウィリアムズ・ホンダで復帰後初勝利を飾り、一般の人にも少しずつF1熱が高まっていた。

1986年F1モナコグランプリ

 1986年、新婚旅行の行き先はモナコグランプリ以外考えられなかった。モナコ自動車クラブ(ACM:Automobile Club de Monaco)がチケット購入の窓口ということを調べ、会社の貿易部の同期に翻訳してもらった手紙をACMに送りチケットガイドを入手するなどしてチケットを購入。ホテルは現地調達、「地球の歩き方」を頼りにトーマスクックの時刻表と航空券とチケットを持って行き当たりばったりでヨーロッパに向かった。ちなみに筆者はパックツアーでグアムに1回、奥さんは初海外旅行。英語が話せないのはもちろん、ドイツ語、イタリア語、フランス語は会話本を見ても発音すらできず、文字を指さすだけだった。

ACMから届いた手紙と第44回モナコグランプリのチケットガイド
チケットガイドに描かれたコース図と観戦席。公道サーキットなので観戦エリアは少ない
当時のプライスリスト。モナコは木曜日、土曜日、日曜日の観戦エリアを別々に買う
ACMから送られてきたチケット。木曜日B2が150フラン。土曜日もB2で300フラン。日曜日はK6で850フラン
ACMのWEBサイトの掲載されている2017年のモナコグランプリの観戦エリア。観戦エリアが増え、大型ビジョンが設置された

 ケルン、ベニス、ニースと夜行列車で回り、ニースに宿泊し、モナコへは電車で通った。1987年には中嶋悟がF1に参戦し、フジテレビが毎戦放送を開始するなど、日本人にとってF1は身近なものとなるが、1986年のモナコで会った日本人は1人だけだった。

 このときカメラ歴は3年半だが、すでにサンニッパ(300mmf2.8)のレンズを使用していた。当時も今も、日本のサーキットではアマチュアが大砲レンズを使用するのは珍しくない光景だが、モナコの観客席で一眼レフカメラを持っている人はまばら。セッション前にカメラを構えると、周囲の観客が振り返ってこちらを見るので、謎の東洋人はニッと笑うだけだった。

 仮設スタンドは撮影にはイマイチ。セッションの途中でスタンドを降りガードレールの外、金網越しに撮影をすることにした。奥さんは隣でエキゾーストノートをウォークマン(正確には東芝ウォーキー)で録音。目の前にカジノ、右にホテル・ド・パリ。坂を駆け上がって来たF1マシンが右から左へ走り抜ける光景は最高だった。

仮設スタンドはポジションが高く撮影には不向き。マクラーレン・ポルシェ2号車はニコの父、ケケ・ロズベルグ
スタンド下、ガードレール付近から金網越しに撮影した。右に見えるのがホテル・ド・パリ
背景の建物がカジノ。ミラボーへ駆け下るマシンを見ることはできない
ベルガーはヘルメットもベネトンカラー。翌年はフェラーリに移籍し、鈴鹿のF1日本グランプリ初ウィナーとなる
黒金のJPSロータスはカッコイイ。セナの黄色のヘルメットも似合う。翌年はマシンがキャメルイエローになるのでこの年がセナ+JPSの最後の年だ
マンセルは予選2位。1986年は6勝してポイントトップで最終戦に臨むが、タイヤバーストでリタイヤ。2ポイント差でチャンピオンを逃した

 市街地コースなので、その日のセッションが終わるとコースやピットは開放される。ザックリ言うとコースウォーク、ピットウォークが毎日行なわれるイメージだ。

当時のピットロード。黄線の左側でタイヤ交換を行なう。立木の左側がレーシングコース
タイヤサービスは誰でも近付ける場所で行なわれていた。ちなみにピンクのトレーナーは鈴鹿サーキットのコース図が描かれたトレーナー

 日曜日の決勝はメインスタンドとも言えるタバココーナーとプールの間のスタンド。目の前がヨットハーバーというモナコらしい風景だ。決勝もしばらく仮設スタンドで観戦し、途中から金網の前に立って撮影した。レースが終わる頃には、着ていた服に小さな黒いものが多数付着していた。コースから数mの距離なので、タイヤカスが降ってきたようだ。払っても取れず、1つ1つ摘まんで取ったと記憶している。

モナコっぽい風景。やや左上に見えるolivettiの看板の左の建物がホテル・ド・パリ。マシンはこのolivettiの看板をくぐって左カーブを抜けるとカジノ前に出る。右下の建物付近のTOYOTAがトンネル出口
このレースの勝者はプロスト。モナコ3連勝。ウィリアムズ・ホンダ優勢のシーズンだったが、最終戦で大逆転でチャンピオンを獲得した
セナは3位表彰台を獲得。翌1987年にモナコ初勝利を挙げ、1988年はトップ独走するも自爆してリタイヤ。1989年から1993年まで5連勝。セナの通算6勝は現在もモナコ最多勝利
ピケは予選11位、決勝7位と残念な結果に終わった。1986年は4勝してランキング3位。翌1987年は鈴鹿でチャンピオンを決める
1986年シーズンで最も印象的なマシンはブラバムBT55。ヘルメットの位置やエンジンカバーが極端に低く、ヒラメと呼ばれた。低さを求め直4ターボエンジンを傾けるなど斬新的なアイデアが盛り込まれた
BT55はシーズンで2ポイントしか獲得できず失敗作に終わった。デザイナーのゴードン・マレーはその後マクラーレンに移籍。2年後にBT55のノウハウを生かし、マクラーレンMP4/4を開発。16戦15勝の金字塔を打ち立てた

 モナコは通常のサーキットのように移動することができないなど制約もあるが、街の景観や雰囲気は他を圧倒する魅力を持っている。今年のモナコグランプリは75回の記念大会。よいレースが行なわれることを期待したい。

F1日本グランプリを30年連続観戦

 1987年は日本のF1元年と言える年だ。フジテレビが全戦の中継を開始。中嶋悟が日本人初のフルタイム参戦。ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケがドライバーズチャンピオンを獲得。そして、日本のモータースポーツの聖地、鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが開催された年だ。

1987年、ついにF1グランプリが鈴鹿サーキットにやってきた。マンセルのクラッシュによりピケのチャンピオンが確定した
セナのマシンはキャメルイエローに。翌年マクラーレンに移籍したセナはチャンピオンを獲得する

 この年から鈴鹿サーキットで20年、富士スピードウェイで2年、鈴鹿サーキットに戻って8年、30年連続でF1日本グランプリは開催されてきた。筆者は30年間、金曜日から日曜日まで皆勤賞で観戦。1度、渋滞に巻き込まれて金曜日のFP1を見逃していることが今となっては悔やまれる。

 振り返るとチケットが入手困難だった時期もあったり、1時間に1mmも動かない渋滞に巻き込まれたり、凍えるような寒さがあったりと、様々な苦労があったが、一番の苦労はサラリーマン時代に有給休暇を取ることだったような気がする。

 ここ10年は自営業なので制約はないが、サラリーマン時代の20年は休みが取りにくい年もあった。特に月曜日が休日で4連休になると、上司の風当たりが厳しかった。それを振り切って鈴鹿へ向かった当時の自分に言ってやりたい「よく頑張った」と。幸いなことに、筆者は子供の運動会とF1の日程が重なることはなかった。

 2000年前後は子供も一緒に観戦していた。当時、小学生は遊園地の入場料で観戦できたので、娘も息子も何度か観戦している。ちなみに、F1にだけ連れて行ったわけではなく、1998年の長野五輪や2002年のワールドカップも子供達は観戦している。

2000年頃は親子で観戦。時が経ち、娘は結婚し子供を出産。筆者はお爺ちゃんになった。息子は社会人となり、2015年のF1日本グランプリは友人と観戦した

 30年数年を振り返ると「人生は何が起こるか分からない」と感じる。富士スピードウェイでレースを初観戦した日、モナコで初めてF1を見た日、30年後に仕事でF1を撮影し、こうして原稿を書くことなど想像できなかった。

 27年間、ファンとして、趣味として、観客としてサーキットに通っていたが、2008年のCar Watchの創刊と声をかけていただいた編集長のお陰で状況は一変した。現在は仕事でサーキットに行き撮影をしているがF1大好きは40年継続中。現在56歳、残る時間で1人でも多くの人にモータースポーツの魅力を伝えたいと思っている。

30年連続開催は世界8位

 昨年のF1撮影記でも紹介したが、1950年から始まったF1グランプリを、2016年まで67年間連続開催している国はイギリスとイタリアの2カ国。モナコが62年、ブラジルが44年と続き、日本の30年は8位となる(2016年末時点)。

F1を連続開催している国
イギリス1950年~67年連続
イタリア1950年~67年連続
モナコ1955年~62年連続
ブラジル1973年~44年連続
オーストラリア1985年~32年連続
ハンガリー1986年~31年連続
スペイン1986年~31年連続
日本1987年~30年連続

 連続開催が途切れた国を列挙すると、ドイツ、ベルギー、カナダなどがあり、主要な国でも連続開催は難しいようだ。これを知ると日本グランプリの30年連続開催の凄さが理解できる。日本で毎年F1グランプリが開催されることは当たり前のように感じるが、招致する鈴鹿サーキットはもちろん、サーキットに観戦に行くファンや地元関係者など多くに人の支えがなければ連続開催はできない。

 次のグラフは30年間の入場者数だ。セナ・プロがシケインで衝突した1989年にグッと増え、2人が1コーナーで散り、鈴木亜久里が表彰台に立った1990年に延べ30万人を超えている。セナが亡くなった1994年を境にやや減少するも長らく横ばい。シューマッハ引退、鈴鹿ラストイヤーとなった2006年が、決勝日16万1000人、延べ36万1000人のピークだ。

 2007年、富士スピードウェイに移り天候の影響などもあり観客は減少。2009年、鈴鹿に戻っても減ったまま横ばいが続き、2012年の小林可夢偉表彰台を境に右肩下がりとなり、昨年は決勝日7万2000人、延べ14万5000人とピーク時の約4割となっている。悲しい。F1日本グランプリ連続開催の危機だ。

2006年、1度目の引退をしたシューマッハ。鈴鹿ラストイヤーも重なり過去最高の36万人の観客数を記録した
2004年のアメリカグランプリで表彰台に立った佐藤琢磨もこの頃の観客動員をあと押しした

 鈴鹿サーキットにF1グランプリが戻ってきて今年で9年。観戦環境は2006年のピークより劇的に改善されている。サーキットは大改修され、指定席はインターネットで席を選んで買えるようになった。バス専用道ができ、駐車場の予約が可能となりアクセス性も向上した。

 おそらく日本人にしか需要のないカメラマンエリアも設置され、分煙ならぬ分写も進んでいる。鈴鹿ヴォイスFMによりサーキットの何処にいても実況が聞けるようになり、スマホアプリで順位やラップタイムをリアルタイムで確認でき、スカパー!オンデマンドで映像も見ることが可能だ。2006年を最後にF1日本グランプリから遠ざかっている人が今年サーキットを訪れたら別世界と言えよう。

カメラマンエリアの盛況ぶりと日本のアマチュアカメラマンが使用する機材は海外メディアが驚くほどだ
公式アプリで詳細なデータを見ながら観戦できる(表示はスペイングランプリの決勝、iPadを使用)

 次回からは劇的に改善されたF1日本グランプリについて、詳しくお届けしていきたい。だがその前に世界3大レースを堪能しよう。

提供:株式会社モビリティランド

奥川浩彦

パソコン周辺機器メーカーのメルコ(現:バッファロー)で広報を経て2001年イーレッツの設立に参加しUSB扇風機などを発売。2006年、iPR(http://i-pr.jp/)を設立し広報業とライター業で独立。モータースポーツの撮影は1982年から。キヤノンモータースポーツ写真展3年連続入選。F1日本グランプリ(鈴鹿・富士)は1987年から皆勤賞。