日下部保雄の悠悠閑閑
日光の想い出
2020年12月14日 00:00
ロールス・ロイス「ゴースト」の試乗会が奥日光で行なわれた。ゴーストのレビューは別稿に譲り、ここでは試乗会にまつわる英国と奥日光について触れてみた。
ロールス・ロイスの試乗会は初めての経験だが、なぜ日光を選んだかも興味がある。試乗会は環境も重要で、ブランドを訴求できる大きな要素。各広報が頭を悩ますところでもある。
ロールス・ロイスにとって重要な車種であるゴーストの試乗会は当初、国際試乗会として行なわれる予定だったが、新型コロナウイルスの影響で一度に集合できなくなり、国ごとに行なわれることになった。
すでに英国ではグッドウッド、ドイツはミュンヘン、中東はドバイ、北米はテキサス、そしてオーストラリアのシドニーと開催され、いよいよ日本の番だ。
ロールス・ロイスのアジア地区広報を担当しているMs. Rosemary Mitchell(略してロージー)も国際試乗会級のイベントを開くのに苦労したに違いない。
ではなぜ奥日光だったのか。英国と奥日光の因縁は深い。時代はぐんと遡って1862年(文久2年)、まだ東京が江戸と名乗っていた日本にやってきた英国の外交官、アーネスト・サトウ(サトウは希少なドイツ名で、日本名の佐藤とは関係がなく、日本人の血が流れていることはないようだ)は幕末から明治維新にかけて日本中を駆け回った歴史上の人物だ。西郷隆盛や大久保利通、勝海舟と誰でも知っている歴史にその名を留める多くの要人と交流があり、日本史の要所要所でサトウの名前を見ることができる。
サトウが来日した約1か月後に、島津公の行列に遭遇した騎乗の英国人が薩摩藩士に殺傷された生麦事件が起きるなど物騒な時代だった。その後1868年(慶応4年)の明治の始まりを経て、アーネスト・サトウの活躍の場はますます広がった。
政情が安定してきた1872年、日光に入ったサトウは避暑地としての価値を高く意識し、横浜の英字新聞に4回に分けて日光を紹介。徐々に外国人にも解放されてきた日本旅行の指針の走りとなった。日本奥地紀行で知られるイザベラ・バードもその1人で、後年アーネスト・サトウの別荘にも宿泊したという。
1885年に日光まで鉄道が開通すると日光を訪れる人は多くなり、サトウも1896年に中禅寺湖のほとりにヴィクトリアン様式の別荘を建てた。その後この別荘は英国大使館別荘となって2008年まで使われて、現在は英国大使館別荘記念公園として開放されている。スコーンと紅茶という英国流のもてなしを受けることも可能だ。
近くには瀟洒なイタリア大使館別荘記念公園もあり、その佇まいに人気がある。このように奥日光には多くの大使館別荘があり、静寂の中に賑わいを見せていた。この時代、奥日光には徒歩か人力車でしか来れなかった時代に、水上飛行機で飛んでくる大使館関係者もいたというから驚きだ。
また現在も受け継がれる名門、金谷ホテルのエントランスには10数台の乗用車が集まったという写真も見せてもらった。1910~20年代のことで、まだ日本には自動車は限られた台数しか走っていなかった時代である。
歴史上の人物の息吹を感じると、ついつい夢中になって年表をひっくり返してみたくなって寄り道してしまった。
そう、ロールス・ロイスが奥日光を試乗会の場所に選んだのは、このような明治時代からの英国との関係、そしてバラエティに富んだ試乗コースと美しい景色が楽しめるからと言う。ロージーが説明するには英国湖水地方から小さなワイオミング、そして山の中のコロラドと変化に富んだコースがあるという。確かにコースはさまざまに顔を変える。
試乗した日は4WDのゴーストのために雪道まで用意されおり、そのホスピタリティは素晴らしい! ま、冗談ですけど。しかしちゃんとウィンタータイヤを用意していたのはさすがでございました。
寒くなってきたのでただでさえ動かないうちの老猫、サスケさんはほぼ寝ています。