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日産「名車再生クラブ」、今年の題材は「チェリー F-II クーペ GX-T」ベースのTSレース仕様車

プリンス自動車最速のドライバー、古平勝氏も出席したキックオフイベント開催

2016年6月25日 開催

日産「名車再生クラブ」の今年の題材は「チェリー F-II クーペ GX-T」

 日産自動車の財産である歴史的な車両を当時の状態で動態保存することと、古いクルマを再生する過程で日産が行なってきたクルマ作り、技術的な工夫を学ぶことを目的とした「名車再生クラブ」。その名車再生クラブは2015年に「NISMO GT-R LM ルマン仕様(GT-1クラス 22号車)のレストアを行ない、NISMO FESTIVALで完成車の発表と走行を披露した。

 その名車再生クラブが今年のレストア車両として選んだのが、1975年(昭和50年)にフルモデルチェンジを受けた2代目チェリーである「チェリー F-II クーペ GX-T」をベースにしたTSレース仕様車だ。チェリー F-IIが発売された時代は、排ガス規制対策に技術を傾注させるためレース活動を中止していた時期。それだけに、このクルマはチェリー F-IIシリーズのイメージリーダーとしての役割にとどまり、国内のレースに参加することはなかった。この仕様で大勢の観客の前で走ったのは、1978年の「レースドニッポン筑波」での長谷見昌弘選手と星野一義選手によるエキシビション走行くらいだった。ただ、ニュージーランドでは実戦での優勝記録があり、そのポテンシャルの高さは証明されていた。

チェリー F-II クーペ GX-T TS仕様。1978年のレースドニッポン筑波で長谷見選手がドライブした5号車のようだ
フロントスポイラーはアルミ製だった。スタビブラケットも作り直されているように見える
グリルに車名が入っているが、目線からの写真ではここに文字があることは気がつきにくい。実車を見られる機会だからこそ、こういう部分も知ることができた。ヘッドライトには当時施されたであろう、昔っぽいテーピングが付いていた
シンプルな塗り分けに見えるが、よく見ると青いラインの太さなどを変えてある凝ったもの。ボンネットはヒンジが前にあるので後ろにボンネットピンが付く。横の突起は外部からクルマの電源を落とせるキルスイッチ
星野選手がドライブした6号車はフェンダーミラー仕様で、こちらはドアミラー仕様。右のみ付いていて左側は付いていなかった。もともと付いていたのかどうか、この日では不明だった
前後のオーバーフェンダーは鉄板で製作され、あとから付け足したように見える
サイドステップはアルミ板で製作。フロント側の先端形状やリアフェンダーにつながる形状など、いま見てもカッコいい。マフラーは左側にサイド出し
リアスポイラーには「GX-TWIN」の文字。車名のチェリー F-II クーペ GX-TのTはツインを表す。バンパー下に見えるのは牽引フックとのこと
前後のホイールは今も旧車ファンから人気を博すGOTTI 073。タイヤはフロントが210/525-14でリアが185/525-14。タイヤはダンロップレーシング
当時のFFレースカーらしくフロントタイヤがリアより太い
フロントはスプリング交換が容易で、プリロードもかけられるアジャスタータイプ。リアは純正形状だが、スタビは新設もしくは強化されているように見える
車体に残っているエンブレム。リアフェンダー後端に車名バッヂが付くというデザインは今となってはなかなか斬新だ
ウィンドウには当時のステッカーが残っていた
オーバーフェンダーの一部はパテにヒビが入っていた。また、右リアにあった給油口もパテ埋めしてスムージングしているが、ここもパテが痩せてきている
ノーマルの面影がかなり残っている運転席まわり。シートは日産のレースカーと言えばのローバックタイプ
4点式ロールバーとリアシート部の消火器も当時のまま残っていた
ガソリンタンクにはコレクタータンクと外付けの電磁ポンプが追加されている。運転席とは簡易的な仕切板が設けられている。レース用のタンクはスペアタイヤが収まる部分に取り付けられていた
エンジンは直列4気筒OHV 1.3リッター「A14」。9500rpmまで回るという仕様で、パワーもリッター100PSを超える145PSというスペック。最初はクロスフローヘッドが装着されたが、結果が出なかったのでターンフローに戻されたらしい
左フェンダー側にはオイルタンクがあった。ラジエターも大型化され、オイルクーラーも大型のものがついていた
名車再生クラブのコアメンバーの1人である竹内氏と座間記念庫

 そんなチェリー F-II クーペ GX-Tのレストアを開始するにあたってのキックオフイベントが、6月25日に日産テクニカルセンターで開催された。2015年の成功から見れば今年の活動はほぼ当たり前のように行なえるものと思えるが、司会を務めた名車再生クラブのコアメンバーの竹内氏は、「関係各位の協力により、なんとか今年も活動を行なえることになりました」と、これまでの経緯が容易ではなかったことを匂わす部分もあったが、それはサラリと流し、「今日を迎えることができて本当にうれしく思います」と、スタートが切れたことの喜びから語ってくれた。

名車再生クラブの活動歴とチェリーのついての資料
名車再生クラブ代表の木賀新一氏

 今年のクルマにチェリー F-IIが選ばれた理由についてだが、これはクラブ代表の木賀新一氏から説明があった。レストアをするクルマを決めるにあたって、名車再生クラブのコアメンバーで座間記念庫に行ったそうだが、このクラブの活動歴はもう10年にもなり、いろいろなカテゴリーのクルマを手がけてきたので対象車選びも難航していた。そんなときに目に付いたのが、チェリー F-IIだった。蒼々たるクルマが並ぶなかで異彩を放っていて、なにか惹かれるものを感じたという。加えてこれまでの活動ではFF車を手がけていなかったので、そこも選択のポイントになったそうだ。

 また、エンジンも魅力だった。チェリー F-IIが搭載するエンジンは、直列4気筒OHV 1.3リッターのA14。それを当時の日産メカニックがレース用にチューニングし、スペックは107kW(145PS)以上/8500rpmとなっている。エンジン設計を行なう部署に所属する木賀氏はここに興味を持った。8500rpmで最大パワーが出るとなると、エンジン的には9500rpmは回るはずだが、それだけの回転を回すとなるとクランクシャフトの振れ対策も重要になる。ところがA14は、クランクシャフトを支えるメインベアリングの数が通常の4気筒より少なく、一般的な4気筒なら4ベアリングだが、A14は3ベアリング。それゆえに、そういうエンジンが9000rpmまで本当に回るのかという疑問もあったそうだ。

 部品設計の面でも9000rpmまで回るような余裕は持っていないはずで、とくにバルブ系はそこまでの高回転についてこれないとの見方が強かった。ところがそれが実際に回ってしまうということは、当時の作りに「何かがある」ということなので、そこは分解したときにメンバーでよく見てみたいとのことだった。

 それからFFとは言いながら、いまのFF形式ではないのもポイントで、このクルマとあわせて日産が所有している初代「チェリー X1-R」も持ってきて日産のFFがどのように進化してきたのかも見てみたいとのこと。エンジンの謎と駆動系の進化についてはたしかに興味深い部分だろう。

 そして木賀氏は「このチェリーはこれまでのヘリテージのクルマのような脚光を浴びるものではありませんが、大変貴重な1台であることには変わりありません。最後はNISMO FESTIVALのTSエキシビションレースで一番前を走ってもらいたいと思うので、クラブの皆さんで頑張っていきましょう」との言葉で締められた。

欠席したKZ2 PI-Officeの新垣洋平氏からはメッセージが届いていた
グローバルマーケティングコミュニケーション部でヘリテージ系を担当している中山竜二氏

 続いては日産グローバルマーケティングコミュニケーション部でヘリテージ系を担当している中山竜二氏が登壇。中山氏からは、チェリーが生まれた1970年代中盤というのがクルマにとってどのような時代だったかについて説明があった。

 1970年代は大気汚染がクローズアップされた時代で、その後、第1次オイルショックも起こった。そのため自動車には排ガス規制や燃費向上についてかつてないほど注目度が高まり、加えて衝突安全性も重要視されてきた。そういった影響でスポーツカーだけでなくスポーツグレードというものが次々に消えていったそうで、つまり自動車にとっては逆風の強い時代だったということだ。

 そのなかで生まれたのが2代目チェリーで、スポーツグレードが次々消え、そういったモデルを作りにくい時代だったにも関わらず、当時の製作陣はスポーツカーやモータースポーツの火を消してはならないという一念からこのようなクルマが誕生したのではないかという見解だった。そんな苦しい時代に灯し続けた気持ちを感じ取れれば、ヘリテージチームとしてはうれしいとのことだった。

日産OBであり、プリンス自動車最速ドライバーであった古平勝氏。ドライバーだけでなくマシン開発、チーム監督も務めた

 次にマイクを取ったのは古平勝氏。元プリンス自動車の社員ドライバーで、同社のドライバーではいちばん速いと言われていた人物だ。その戦歴も紹介されたが、なんと日本のモータースポーツ史のなかで伝説となっている第2回日本グランプリにも出場していた。このレースでは生沢徹選手が乗ったスカイライン S54A1とポルシェ 904と激しいバトルを繰り広げたことは知られているが、古平氏も同じくスカイライン S54A1でドライバーとして参加していた。

 それだけの実力者だけに、ドライバー以外にも自動車開発の責任者や、サニーとチェリーでの海外レース参戦においてはチーム監督も務めた。また、ラリー参戦にも関わっていて「PA10」を走らせていたころもチーム監督を務めた。さらに「MID4」の開発にも関わっていたというし、リタイア後はR380、R381、R382、R383などのレストアにも携わったという、日産モータースポーツにおける生き字引的な存在である。

 そんな古平氏からは、とても貴重な話となる日産のレース活動の歴史が語られた。日産はその歴史のなかでプリンス自動車と合併している。そしてそれぞれの会社にレース部門や実験部門はあったのだが、ここはなかなか一体にならず、会社が一緒になった後も別々で活動していたという。そしてチェリーが生まれた時代、日産にはサニーがあったが、サニーは日産側が作ったクルマ。それに対してチェリーはプリンス側が作ったクルマだったと記憶しているという。そのなかで内容によっては1カ所にまとめて製作しようという動きがあり、それが実行されたのがエンジンだった。その結果、荻窪にあった工場にはL系、G系、A系が集約されたといい、つまり今回のチェリーのエンジンを制作したのも荻窪工場ということになる。

 そしてエンジンについて、チェリーはエンジンが横置きでインテークが運転席側を向いている作りだ。そこで当時のメカニックはクロスフローヘッドを製作した。この仕様はエンジンベンチで回すとパワーが出たそうだが、実車に積んでみるとまず何より音がよかったという。では、速さもあったのかというとそうではなく、思っていたように空気が吸えなかったという。そこでこのクロスフローヘッドは不採用になったようだ。

 また、チェリーのレースカーはテストのため海外にも持ち出されたのだが、そこでの評価はなかなかよかったという。当時の海外レースでは「ミニクーパー」が多かったが、それと比べてもよい評価を得たそうだ。ところが日本ではサニーに追い付かない状況が続き苦戦。国内のドライバーがFFに不慣れでアンダーステアに悩まされていたため、リアタイヤのサイズを落としていき、最後は135サイズまで細くしたらしい。そんな苦労をしてきたが、ドライバーにも乗り方を変えてもらうなどすることで段々と開発が進み、クルマを仕上げることができたという。

日置和夫氏。若いころは実際にチェリーに乗っていたという。ラリーに参戦しようと思っていたが、「あまり走らないクルマだった」とのことで断念したという

 次は日本MS推進機構 理事長である日置和夫氏。日置氏は若いころ、実際に2代目チェリー(セダン版)を所有していたとのこと。この時代、他社にFF車がなかったので車体のデザインもFRっぽいスタイルになっているし、駆動系もミニクーパーと同じようにエンジンとトランスミッションが縦に搭載される構造と、いろいろな面で興味深いクルマだったと当時の印象を語った。

 また、日置氏はチェリーの再生について、「実はA系エンジンが作られてからちょうど50周年で、さらにプリンスと合併したことについても50周年という節目の年でもあるので、クラブの皆さんにはぜひ頑張っていただきたいと思っている」とのことだった。

このクラブの活動拠点が神奈川にある日産テクニカルセンター
名車再生クラブに対する質問をまとめたものと、今後のスケジュール

 このキックオフイベントには報道陣だけでなく、名車再生クラブのメンバーも参加していたので、各位の挨拶のあとは「みんなで実車を見てみよう」という時間が設けられていた。ボンネットを開けてエンジンをのぞき込む人、外装の状態を細かくチェックする人などクラブのメンバーは楽しそうに、そして真剣な目でチェリー F-II クーペ GT-Xを観察していた。

 このキックオフイベントが終われば車体は各部位ごとに専門部署に送られ、そこでレストアを受け、予定では11月に完成。そしてテストを行なったあと、NISMO FESTIVALでデビューとなる。たしかにこのチェリー F-II クーペ GT-Xは華々しい歴史は持っていないが、初のFFレースカーであり、規制が厳しいなかで次の時代へスポーツカーやレースの火をつなげる気持ちで作られたであろうという面は、名車再生クラブが手がけるに十分値する価値を持つクルマと言えるだろう。11月の完成が待ち遠しい。

キックオフイベントのあと、参加者で実際にクルマを見学。これが終わるといよいよ作業が開始される