インプレッション

ホンダ「S660(プロトタイプ in HSR九州)」

 本田技術研究所の50周年を記念した新商品提案企画というイベントが行われ、そこでグランプリを獲得した作品がS660の出発点だった。このイベントには数々の作品が社内から応募があり、四輪部門にはおよそ400件の提案があったという。ちなみに、S660のベースになったもの以外でも上位を争ったものは、いずれも軽自動車企画だったというから面白い。現在、Nシリーズでヒットを飛ばすホンダなだけに、軽自動車が盛り上がっているということなのかもしれない。

 このミッドシップ・オープン2シーターを提案したのは、椋本陵さんという20代の若者だ。後にS660のLPL(ラージプロジェクトリーダー)を務めることになる人物である。「実は最後まで争ったほかの軽自動車企画のいずれもが、スポーツカーだったんです。つまり、研究所でクルマを造っている人間が造りたいクルマは、軽カースポーツだったんですよ」と椋本さん。今でも研究所にある通勤用の駐車場にはビートが数多く存在し、その台数は300台以上だというから興味深い。1991年に登場した軽自動車のミッドシップ・オープン2シーターが、現在も研究所で愛され続けているからこそ、軽カースポーツの企画が乱立したのだろう。

 ただ、椋本さんの思いは、なにもビートの焼き直しを造ろうというわけではない。「周りを見渡してみると、若い世代がホンダのクルマに乗っていないように感じていました。だから若い世代、つまりは自分たちの世代にもカッコイイと思われるホンダ車を造りたいと提案したんです。これからのマイクロスポーツの提案、それがS660なんですよ」とのこと。けれども、かつて2度に渡ってビートをガレージに収めていたオジサン世代の僕からすれば、それはやや寂しい。やっぱりビートと名乗って欲しかった……。

S660(プロトタイプ)

 だが、試乗コースとなる「HSR九州」のミニサーキットを走り出せば、そんな思いが一気に吹き飛んでしまうくらい、S660(試乗車はプロトタイプ)はビートとは別世界の走りを展開していることに気づかされる。ピットをあとにしてフル加速を行えば、レブリミットである7700rpmまでスッキリとスピードを重ねてくれる。一時は80PSだの100PSだのという噂が流れたパワーは、結果的には自主規制の64PSを打ち破ることはできなかったため、高回転になると意図的にブーストを下げてそのパワーに収まるようセットされているような感覚がある。とはいえ、アンダーパワー感が常に付きまとい、高回転を維持しなければ周りのスピードに合わせられなかったビートのようなことはない。低回転からしっかりとトルクを生み出し、高回転までストレスなく加速できること。これが圧倒的に違う。

 ここまでの仕上がりとなったのは、Nシリーズでおなじみとなったターボエンジンをドーピングしたからだ。バルブスプリングを強化し、小型でハイレスポンスなタービンへと変更することで、6速MT車のレブリミットを7700rpmにすることを可能にしたのだ。ちなみに、CVTモデルのレブリミットは従来どおり7000rpmとなる。このほか、高旋回Gに対応するため、オイルパンやオイルストレーナーを見直し、さらにブローオフバルブをチューニングすることでスポーティな音の演出まで行っている。アクセルオフしたときに「パシュ!」という音が室内に飛び込んでくるから面白い。高回転仕様にしても、ブローオフバルブの演出にしても実に懐かしい世界観だが、いずれも最近では感じることのなかったテイストだけに、思わずニッコリしてしまう。そこにビートにはなかった速さがあるのだから好感触。思わず軽自動車であることを忘れてしまうくらいだった。

直列3気筒DOHC 0.66リッターターボエンジンは64PSを発生

 対して、ボディーやシャシーも気合は十分だ。リアのサブフレームをアルミ製とする軽自動車初の試みを行ったS660。車体剛性に対しても抜かりなく取り組んだ結果、ホンダのオープン2シーターの兄貴分である「S2000」を超える剛性を手に入れることに成功したという。こうして誕生した車体は、MTモデルで830kg、CVTモデルで850kg。昔と比べればたしかに重いが、ロールオーバーまでしっかりと見据えた安全ボディーが備わっているのだから許せるか。仕上げにタイヤをADVAN NEOVA AD08Rとしたこともスポーツ度は満点。サイズはフロントが165/55 R15、リアが195/45 R16を選択している。

 おかげでコーナーリングはなかなかの爽快感。初期操舵からリニアにクルマ全体が応答を見せ、かなり速いスピードで旋回することを可能にしてくれる。かつてのビートは、ドライバーがきちんと曲げる操作をしなければなかなか曲がらない仕上がりだったが、S660は、例え間違った操作をしたとしても、フロントタイヤが最後まで路面をつかんでいてくれる感覚があるのだ。ピッチングやロールも少なく、実にキビキビとした身のこなし、これがたまらなく気持ちいい! CVTモデルに関しては足が同様でリアが20kg重いために、初期応答がやや劣り、リアがどっしりとした感覚がある。どうせならリアの重さに合わせて足をリセッティングして欲しい気がするが……。

純正タイヤに「ADVAN NEOVA AD08R」をセット。タイヤサイズはフロントが165/55 R15、リアが195/45 R16となる
CVT車のインパネ
上級グレードはレザーステアリングを装着する
6速MT車はメーターパネルの左側に「SELECTボタン」、右側にエンジンのスターターボタンを配置
SELECTボタンを押すと、メーター内部のリングが赤く発光する演出を用意。6速MT車は7700rpmからがレッドゾーンになる
6速MT
CVTはステアリングのパドルスイッチでマニュアルモードの変速も可能
6速MT車のペダル類
CVT車のペダル類
シートはレザー&バックスキン調ファブリックのコンビネーションシートと複数の表皮を組み合わせたファブリックシートを用意

 いずれにしても、こんなスポーティなセッティングを可能にしたのは、やはりスタビリティコントロール(VSA)や、軽自動車として初となる「アジャイル・ハンドリング・アシスト」が装備されたからだろう。絶対に破たんすることなく走り、さらにはちょっと行き過ぎたときにイン側のブレーキをつまんで曲げるシステムがあったからこそ、足のセットもかなりニュートラルな方向へと振ることができたのだろう。ビートの時代はなにもない状態で確実な安定性を出さねばとなった結果、かなりの上級者じゃなきゃ曲げられない、そんなセットだったのだ。

 ただ、欲を言えばサーキットに来たときくらいはその電子制御を外せるようにして欲しかった。ホンダは今、どのクルマでもスタビリティコントロールを完全には外せないようにしている。今回の試乗でも、走り出す前に用意されているOFFボタンを押してVSAを解除しているのだが、タイヤが滑り始めるとハザードランプが点滅。VSAによって挙動が安定方向に修正されてしまった。これは会社としての考え方であり、このS660でも例外は許されないということらしい。でも、もしもすべてを解き放ったなら、どんな走りが待っているのか? それがどうしても知りたくなる。すなわち、それくらいすべてのポテンシャルが高いクルマだということ。ついつい本気になって攻めたくなる、そんな仕上がりなのだ。

力強いエンジンとキビキビとした身のこなしで、ついつい本気になって攻めたくなるS660(プロトタイプ)なのだが……
ボタン操作でスタビリティコントロール(VSA)をOFFにしても、最終的には制御が働いてしまう。ニュートラルな走行性能を実現するためとはいえ、それが残念に思えるほどのポテンシャルを持ったクルマになっているのだ
フロントウインドーには、先進安全装備のシティーブレーキアクティブシステム(CTBA)用のセンサーを設置

 実はS660という車名は、こうした走りが知れ渡ってから付けられたネーミングだという。「研究所の多くの方々に乗っていただき、『この走りならホンダの“エス”を名乗るべきだ』という話になってS660という車名が決まったんですよ。これはかなり嬉しく、光栄なことでしたね」とLPLの椋本さん。ビートと名乗らなかったのには、こんな理由があったのだ。焼き直しを造るつもりはないと決心していた椋本さんの気持ちが、本格スポーツのエスの称号を獲得することに繋がったのである。

 すなわちS660は単なる軽カースポーツとして考えるべきじゃない。軽自動車の枠を飛び越えた本格的なミッドシップスポーツだと僕は感じている。

Photo:安田 剛

橋本洋平

学生時代は機械工学を専攻する一方、サーキットにおいてフォーミュラカーでドライビングテクニックの修業に励む。その後は自動車雑誌の編集部に就職し、2003年にフリーランスとして独立。走りのクルマからエコカー、そしてチューニングカーやタイヤまでを幅広くインプレッションしている。レースは速さを争うものからエコラン大会まで好成績を収める。また、ドライビングレッスンのインストラクターなども行っている。現在の愛車は18年落ちの日産R32スカイラインGT-R Vスペックとトヨタ86 Racing。AJAJ・日本自動車ジャーナリスト協会会員。