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【祝!! 佐藤琢磨優勝】インディ500ドライバー・松田秀士

360km/hオーバーの世界で繰り広げられる死闘を経験から語る

2017年のインディ500で優勝した佐藤琢磨選手(26号車 Andretti Autosport、ホンダ)
佐藤琢磨選手の優勝を受け、1994年~2000年にインディ500にチャレンジした経験を持つモータージャーナリストの松田秀士氏に寄稿いただいた(写真はインディ500チャレンジ当時のもの)

 ついにその時がやってきた。101回目となる伝統の「インディ500」で佐藤琢磨選手が優勝したのだ。1周2.5マイル(約4km)のコースを200周して争われる伝統のレース。最後の10周プラスでトップ争いをした琢磨選手の走りは素晴らしいものだった。改めて琢磨選手に「おめでとう!」を言いたい。

 ボクはCS放送のGAORA(ガオラ)で長年インディカーシリーズのコメンテーターを担当している。とても印象に残っているのが2012年のインディ500。当時はインディカーシリーズに移籍してきて3年目のシーズン。琢磨選手は非凡な走りで他の選手を圧倒。なんと、ファイナルラップでトップを走るダリオ・フランキッティ選手に勝負をかけ、第1ターンでインに飛び込んだ。しかしパッシングは成功せず、2位はおろか、彼はスピンして壁にクラッシュしてしまう。一部のレース関係者が「仕掛けず待てば次の第3ターンで抜けたのではないか?」「2位でよかったのではないか?」と揶揄した。

 しかしボクはまったくそうは思わなかった。レースの流れを見ていれば、第3ターンまでにパスすることが難しいことは分かっていたし、第1ターンでトライするしかないことは明らかだった。それをするかしないかはドライバーに委ねられているが、もし彼があの時トライせず2位に甘んじていたら、今、琢磨選手はインディカーシリーズを走っていなかっただろう。なぜなら、その時の果敢な走りを米国のファン、そしてA.J.フォイトが強く支持したからだ。翌年、A.J.フォイトのチームに招かれた琢磨選手は、第3戦のロングビーチで日本人として初めてインディカーシリーズ優勝を手にしている。つまり、あのファイナルラップの果敢な攻めがなかったら、A.J.フォイトのチームに招かれることはなかったはずなのだ。

 インディ500での勝者は1人で、2位および3位の表彰台はない。2位は偉大な敗者、という位置づけだ。平均速度が360~370km/hという危険なレース。これでもか、というくらいの安全対策が施されたうえでレースが行なわれているが、今回レース中のスコット・ディクソン選手の事故を見れば分かるだろう。彼が無事だったのは、ただラッキーなだけなのだ。米国ABC放送のコメンテーターも「So Lucky!」を連発していた。あの速度でマシンが飛び上がってしまったらどうすることもできない。それでも、チャンスがあれば仕掛ける。戦わないドライバーをインディ500は評価しない。走っているだけでも危ないレースなのだから、戦わないのなら初めから走らなければいいのだ。

 この2012年のレースを見た時、ボクが初めてインディ500を走った1994年を思い出していた。約40万人が入る観客席。練習中に観客はほとんどおらず、ガラガラの観客席に囲まれての走行。予選だって10万人ほど入るものの、一部の客席しか解放されず、ほぼガラガラ。しかし、レース当日はいきなり超満員となり、観客席は人のカラーで埋まる。そしてパレードラップが始まり、IMS(インディアナポリスモータースピードウェイ)のコースはまるで別物になる。コース幅は今までよりもずっと狭く感じられ、なんとも言えない威圧感に包まれる。

 その時に連想したのはコロシアムだ。220mph(約360km/h)オーバーのスリリングなレースを見に来る観客。だけど、決して事故を見に来ているのではない。事故は起こるかもしれないが、その恐怖の中で死闘を演じて生き残り、勝ち抜くドライバーの姿を観るために来ているのだ。インディ500はメモリアルデー(戦没者慰霊記念日)の前日に行なわれるイベント。つまり国のために勇気を持って戦い、散っていった兵士を讃える日なのだ。兵士の姿とドライバーが被るような気がする。だから、いつまでもインディ500は米国人から愛される、歴史的なレースイベントであり続けるのだと思う。

 国歌を含めたさまざまなイベントがスタート前に催される。それは国家的イベントを意味しているかのようだ。国歌の最後にジェット戦闘機が飛来し、興奮は一気に高まる。IMSオーナー一族の「スタート・ユア・エンジンズ」のアナウンスでエンジン始動。そして3周のパレードラップがスタート。朝のウォームアップ走行なんてない。4周ほどしたら33台が横3列/縦11列でいきなりスタートだ。このとき、アルコール系燃料ゆえに目は真っ赤になり、鼻の奥を突き刺すような刺激に涙も鼻水も溢れる。しかしアクセル全開。次々にアップシフトを繰り返し、220mphオーバーの世界へと飛び込んでいく。

 スタート直後はたくさんのマシンが集団を形成するので、「タービュランス」と呼ばれる空気の乱流が半端なく起きる。ちょうど海上をモーターボートが走った後の波のように、それが空気中で立体的に起きているのだ。しかもその波は目には見えない。マシンや身体が空気の波に揉まれて初めて知る。ハンドリングは単独で走っているときとはまるで違って、アンダーもオーバーも出てしまうほどで、戦うつもりなら集中しないとスピンしそうになるくらいに不安定だ。

 スタートしてから10周ほどの間に隊列が徐々に散らばり、タービュランスがひとまず落ち着く。しかし、この速度は1秒間に100m移動することを意味している。だからたとえ100m先の先行車両を追いかけていても、ターンに入った瞬間に先行車両のタービュランスを受けていることを感じる。だから真後ろについているときなどは、注意しないとフロントのダウンフォースを失っていることがある。

 パッシングも特殊だ。IMSのコースは長方形のオーバル。4つのターンはほぼ90度に曲がっていて、第4ターン→第1ターン、第2ターン→第3ターンまでの長い直線が1kmあり、実質的なパッシングポイントは第3ターン及び第1ターン手前の直線だ。つまり第2、第4ターンの出口で先行車のドラフティングに入り、長い直線で横に並び先にターンに進入するという抜き方。当然、先行車はインを押さえてブロックするので、アウトから並びかけて2ワイドになりながらパスする。3度のインディ500ウィナーであるエリオ・カストロネベス選手を、琢磨選手はこの方法で見事に仕留めた。

 長いストレートでドラフティングに入るには、第1ターンや第3ターンで近づきすぎるとダウンフォースが低下し、マシンが不安定になるばかりか、行き場を失いアクセルを戻さなくてはならなくなる。1度アクセルを戻すと超高速ゆえにエアブレーキがかかり、長い直線でドラフティングに入れないばかりか、後続車に抜かれてしまうリスクがある。つまり先行車に接近するにもタイミングがあり、イケイケなだけではパスできないのがこの超高速バトルの面白さ。さらに、吹き流しを見て風の方向を確かめておく必要がある。オーバルはグルグル回るので、必ず追い風と向かい風に出会う。パッシングは、先行車が速度を失いがちな向かい風方向にターゲットして試みるのがベターだ。ドラフティングに入ることで、自分は向かい風の抵抗を軽減して走ることができるから。

 これだけではない、超高速ゆえに気温が下がると空気密度が増し、ダウンフォースが強まる。上がればその逆だ。ダウンフォースの増減はハンドリングに大きく影響するから、その日の気温によってセッティングを変更する必要がある。だから、何台も走らせている大きなチームはデータ量が豊富で有利なのだ。アンドレッティ・チームに移籍した琢磨選手は「イケル!」と感じていたに違いない。

 オーバルを走るインディカーには、「スタッガー」という特殊なセッティングが施されている。左リアタイヤに対して右リアタイヤの径が大きく、デフが直結となっている。このため、ステアリングから手を離すとマシンは自動的に左にターンし始める。つまり、ストレートではステアリングを常に右に切っておく必要があり、パワステを持たないインディカーのオーバル走行は手首が辛い。

 マニアックな話が続くが、タイヤのキャンバーセットは、イン側となる左タイヤも右タイヤと同じく左方向に傾斜してセットされる。理由は簡単、左にしか曲がらないからだ。スプリングレートは4本とも異なり、ゆえにダンパーセッティングも4本とも異なる場合が多い。キャスター角も左右で異なる。これによって左右のホイールベースが変わる。フロントウィングの角度も左右で変える。主にイン側をより角度を付けることが多いが、ドライバーによってはクリーンエアをアウト側で受けることが多い場合は逆にすることもある。

 ボクが走っていた1994年~2000年は、以上のようなセットアップを施したマシンで走っていた。現在のマシンが、詳細にこれと同じかどうかは分からないが、テレビの画面を見ていて普通に走らせているように見えても、ドライバーはこのようなマシン環境の中でレースバトルを演じているのだ。インディ500というレースが、いかに過酷なものか少しでも理解していただければ幸甚である。

 1999年、ボクは予選10位、木曜日のカーブ・デイ5位と調子がよかった。しかし、スタートして1回目のピットストップのタイミングをミスし、ガス欠ストップ。4周を失いビリから追い上げ、抜きまくった。フィニッシュした時には10位に戻していた。正直、勝てると確信した。翌2000年、勢い勇んで挑戦したが、予選シミュレーション中に第3ターンでクラッシュ。まだセーファーウォールがない時代で、コンクリートウォールに320km/hでヒットし、160Gという信じられない衝撃を受けた。左膝と右手首を複雑骨折する重傷。インディ500は甘くはなかった。ボクのインディ500はここで幕を下ろした。年に1度しかインディカーのステアリングを握らないわりには、7年に渡るチャレンジで4度決勝レースを走った。あの頃は予選落ちがあったし、予選を走れれば必ず決勝のグリッドを手に入れた。まぁ頑張ったかなぁ?

著者の松田秀士氏は1994年~2000年にインディ500に挑戦。写真は初挑戦となった1994年の99号車
1995年の54号車
1996年の52号車で最高成績の8位を収めた

 そんな自分の体験を思い起こしながら、比べてはいけないかもしれないが琢磨選手の8年目にして手に入れた栄冠。モチベーションを絶やさず自分を信じて走り続け、エリオをパスし、ブリックヤードを踏んだ瞬間、身体が固まりそうになった。このレースで勝つことの凄さを少しでも分かっていただけただろうか。おめでとう! 佐藤琢磨。