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インディ500を優勝した佐藤琢磨選手、優勝記者会見 「このイベントの参加者の一人として参加できたことに感謝したい」
2020年8月25日 07:22
- 2020年8月23日 開催
2020インディカー・シリーズ第7戦「第104回インディアナポリス500マイルレース」の決勝レースが8月23日(現地時間)行なわれ、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングの30号車 パナソニック・ピープルレディ・ホンダに乗る佐藤琢磨選手が、2017年の初優勝に次いで2勝目を挙げた。複数回優勝ウィナーとしては、100年を超えるインディ500の歴史の中で20人目になる。
その勝利は、残り5周で佐藤選手のチームメイトであるスペンサー・ピゴット選手がクラッシュし、フルコースイエローが出ることになり、そのままホワイトフラッグ(残り1周を示す旗)が示され、セーフティカー先導のアンダーイエローのままチェッカーを迎えることになった。
佐藤琢磨選手は2012年にもレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに所属して、チップ・ガナッシ・レーシングのダリオ・フランキッティ選手と最終ラップまで激しいバトルを繰り広げた。最終ラップの1コーナーでスピンアウトして敗れるという悔しいレースを展開したが、8年後にレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに戻り、同じチップ・ガナッシ・レーシングながらライバルはスコット・ディクソン選手に変わってのレースで、2012年の借りを返す形でゴールする形になった。
レースでは最終スティントが大きな鍵となった。レース後、2位になったディクソン選手は「自分よりも1周前にピットインした佐藤選手が最後まで燃料が持つと思っていなかった」とコメント。クラッシュからのイエローフラッグがなく、グリーンのフィニッシュであれば抜けたはずとも語った。それに対して佐藤琢磨選手は「燃料は常にセーブしておりディクソン選手が迫ってきたときだけ(燃料の)ミクスチャーを濃くして対応し、そうでないときには薄くして対応していた。また、タイヤもセーブしており最後まで余裕を残していた」と述べ、たとえ最後の5周がグリーンのまま終わっていたとしても、十分ディクソン選手と戦えるだけの余力を残していたとコメントした。
本記事では、インディ500終了後に現地で行なわれた記者会見での質疑応答をお届けする。すべて英語でのやりとりが行なわれた。
佐藤琢磨選手 インディ500優勝後記者会見
──日本人ドライバーとして初めて優勝し、今回2勝目を挙げた佐藤選手、複数勝利を挙げた20人目のドライバーでもある。今の気持ちは?
佐藤琢磨選手:これ以上ない素晴らしい日だった。言葉では言い表わせない。すべての人に感謝したい。特にインディアナポリス・モーター・スピードウェイ、ロジャー・ペンスキー氏、ハルマン-ジョージ・ファミリーの皆さまに感謝したい。今年はこのレースを開催するために多くの人が努力した。このイベントの参加者の一人として参加できたことに感謝したい。
最初に、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLLR)が本当に素晴らしいチームだということを強調したい。ここではすべてのチームとドライバーが500で勝つことを夢見ている。ボビー・レイホール氏、マイク・ラニガン氏、デビッド・レターマン氏(筆者注:いずれもRLLRのチームオーナー)に感謝したい。そして自分の30号車 パナソニック・ピープルレディ・ホンダ(佐藤選手の車両名)の30人のメカニックにも感謝したい、クルマは非常に強力で競争力があった。
最後の数周は少し速かった。イエローフラッグが出る前には、レースはかなり長くなり過ぎていた。その中でスコット(スコット・ディクソン、2位)の1周前にピットインをしたため、その後燃料消費に課題を抱えてしまった。無線でもっとパワーをといったら、ホンダとHPDが素晴らしいパフォーマンスを実現してくれた。それでも燃料をセーブする必要があったが……。4位でレースに戻って、ディクソン選手が来ているときにはとにかく最高のパワーモードにしている必要があった。
その後は皆さんがご存じのとおりで、最高な結果だった。僕達をサポートしてくれた皆さんにお礼を言いたい。
──COVID-19により、今回のレースは無観客になった。それについてどう思ったか?
佐藤琢磨選手:COVID-19との戦いは誰にとっても厳しいことだ。しかし、我々はスポーツとしてレースができるようになり、今日は何百万ものファンがテレビを通じてレースを見て、それによりファンに勇気を与えられたと思う。
僕はその一員であることを誇りに思う。もちろん、それで元気が出るかと言えばそうではない。観客がいない中、毎朝ガソリンアレイ(インディアナポリス・モータースピードウェイのパドックゲートのこと)を通過するときにも、ファンに励まされたりはないのは少々残念に感じている。しかし、我々全員がそれを理解している。すでに無観客レースはやっているし、慣れることはないが、仕方がないことだ。
自分としてはそうした30万人ものファンがいる雰囲気が大好きだし、ファンからの声援が自分のエネルギーになるが、それは今日はなかった。その中でも前に進まないといけないし、それが僕達の仕事だし、数百万のファンがテレビで見ていることを知っている。
もちろん運転しているときにはトラックでの走りに集中はしているが、同時にスタンドのファンの動きも見えている。例えば、風向きを見るために旗に注目したりとか。なのに今回は灰色のスタンドで少し悲しかった。そういう状況だが、我々はファンのために、チームのために全力を尽くしてレースをした。
──スコット・ディクソン選手は、あなたがレースの終わりには燃料が足りなくなると考えていたと言っていました。あなたの側からはどうだったのですか?
佐藤琢磨選手:僕達はみんな今週のディクソン選手には注目してきた。正直に言うとこの2週間、特に練習走行から予選までは彼が最も速いクルマをもっているように見えた。特にみんなが厳しい状態だったトリッキーなコンディションだったカーブデー(決勝前に最後の練習走行のある日のこと)でもよいように見えた。その意味でディクソン選手とガナッシチームは非常にいい仕事をしていた。
だが、今日は違っていた。彼はスタートからリードしていてすぐ見えないほどリードを広げていった。その時我々はミクスチャーを薄くしたり、できるだけ燃費を稼ぐ走りに徹していた。ライアン(ライアン・ハンター・レイ選手)とやりあったりしている中で、トラフィック、シングルカーのトラフィックや2台のトラフィックなどがどう影響するかを確認することができた。レースの状況はプラクティスとは大分状況が違っていたので、タイヤの履歴、ミクスチャーの設定などをこの段階で学んでいた。
最初の100周は、トップ3やトップ5にいればいい、それがこのレースに臨む僕の哲学だ。もちろんチャンスがあれば、リードしたくなるのだが、そうすると燃費が厳しくなる。それが自分の戦略だった。
そして100周が過ぎた後には、スコット(ディクソン選手)とやり合う可能性が出てきた。それでトップに立ってリードした。その段階では、自分達のパッケージ(車のセッティングやタイヤ)は非常に競争力があると感じていた。もちろん、ピットストップごとにちょっとずつセッティングは変えていたが、レースに戻ると4番手、レースに戻ると4番手という展開の繰り返し。また、強気でいくと、その後はすぐにコンサバに……その繰り返しだった。だが、最後の3スティント、レース後半のすべてのスティントではクルマは強力だった。
そのころにはスティントの最後には、自分のクルマがとても速いことに気がついていた。そしてリスタート後にはレースをリードしていた。そうするとピットからは「燃料使い過ぎだ」という無線が入ってきて、より薄いミクスチャーにせざるをえなくなった。そうするとスコットが追いついてきて、抜こうとしてきた。そのときには最大限パワーが出るようにスイッチを切り替えて対処した。
それで彼が3車身、4車身ぐらい離れると、もう一度ミクスチャーを薄いモードにした。我々は非常に近いところでレースをしていて、それが何度も繰り返された。このため、無線で数字を確認しながら最後まで走り切れるようにそれを調整しながら走っていて、自分達としては最後まで走り切れると思っていた。
しかし、最後の数周ではディクソンが来ると予想していた。そのときには彼も100%のパワーで来ると思っていたので、自分の方もそれに対処できる余裕を残すようにしていた。いずれにせよ本当に本当に接戦だった。
──2012年のレースのことは常に思い出しながら走っているか?
佐藤琢磨選手:インディ500は最終ラップの最終コーナーまでどうなるか誰にも分からない。ターン4を抜けてストレートに出て、アクセルを全開にする段階になって初めて勝ったことを認識するのだ。もちろん、今日はアンダーイエローでのゴールとなったので、全然違う環境だった。
我々の無線を聞いていた人は分かっていると思うが、常にオイルの温度、オイルの圧力、ギアボックスの温度に問題はなかった。このため、自分はできるだけ貝になって(黙って)いた。常にチームがそうした自分が必要な情報を与えてくれていたので。
もちろんファンがアンダーイエローのチェッカーではなくて、最後まで優勝争いがあるレースを望んでいることは知っている。本当に自分が強調したいのは、自分のチームメイトであるスペンサー(スペンサー・ピゴット選手)が無事にクルマから降りることができたことだ。本当にクラッシュの角度がわるくて、大丈夫なのかと心配していたので。
繰り返しになるが、インディカーのセーフティクルーの素晴らしい仕事を賞賛したい。エアロスクリーンも安全性の向上に大いに役立っていると思う。それが今日僕が感じたことで、今日起きたことに貢献してくれた全ての人に感謝したい。
──何度か勝ちに近づいた後、遂に2017年にインディ500で優勝した。そして今日2勝目を挙げたが、この2勝目は佐藤選手自身やインディカーでの偉業になったのか?
佐藤琢磨選手:何度インディ500に参戦しても、歳を取らないし、退屈など感じたことはない。何度このレースに出ていようが、誰であろうが、誰もがこのレースを勝ちたいと貪欲になっている。エリオ(エリオ・カストロネベス選手)を見れば分かるように、彼は3度このレースに勝っている。だが、今でも彼は最初のレースであるかのように貪欲だ。このレース前に彼とちょっと話したが、彼は「まてまて琢磨、オレはお前をぶち抜くぜ」と言っていた。
それがインディ500というレースであり、特別なレースなのだ。2012年のように、がんばっても最後の最後で落としてしまうこともある。2017年はマイケル・アンドレッティ(筆者注:佐藤琢磨選手が2017年にインディ500を優勝した時の所属チームであるアンドレッティ・オートスポーツのチームオーナー)が6台チーム体制の中の1台という素晴らしいチャンスをくれた。そのときはクルマは本当に最高で、チーム内で誰が勝つのかということだけが問題だった。
インディ500では誰がベストなのかというのはレースが終わるまで分からない。正直に言って、今年は誰もアドバンテージを持っていないとレース前には考えていて、誰もが近いところにいると感じていた。というのも、今回はエアロスクリーンをつけての初めてのインディ500だし、だからこそエンジニアリング的には難しいチャレンジだった。
また、皆が高いブースト(過給圧)で走る予選を見ていると、特定の1台が飛び抜けて速いということはなく、全員が競争力を持っていた。これがインディカーであり本当の競争だ。
そして今日のレースの鍵はまさに最後のスティントにあった。我々には幸運が味方したのは間違いないが、それをつかめるように努力してきた結果だ。それがまさに今日のレースの鍵だった。
そして、何より30号車 パナソニック・ピープルレディ・ホンダをドライブできたことが幸運だったと思っているし、チームやメカニックは本当にいい仕事をした、彼らに感謝したい。
──今回2勝以上を挙げたドライバーとして20人目となります。エリート企業に入ったようなものか?
佐藤琢磨選手:本当に素晴らしい、素晴らしいとしか言いようがない。それは知らなかったし、まだ何を言ったらいいか分からない。もう少し経ったら実感がわいてくると思う。
2017年に初優勝した時も同じように感じたが、本当に今回も初優勝したかのように興奮している。今、本当にやったんだと認識した。
チームオーナー、メカニック、スポンサーの皆さま、そしてファンのみんなを含めて、このチームの一員でいれることがとても嬉しいし、だから今でも高い競争力を維持できているのだと思っている……いや、本当のところはちょっとラッキーだっただけだ(笑)。
──スコット・ディクソンとの最後のバトルでは仮にイエローが出なくても燃料は十分あったと言っていたが、タイヤの方はどうだったか?
佐藤琢磨選手:もちろん問題ないと考えていた、そうなるように我々は準備してきたのだから。最初の4スティントは自分にとってやや厳しかった。最初のスティントはややコンサバに、そして4つ目のスティントではイエローが出て最後まではいかなかったが、自分にとっては良すぎるぐらいよかった。
そのスティントではちょっと早めに入って、次のスティントは最初からよかった。アレックス(アレクサンダー・ロッシ選手)もそうだったと思うが、2番目のスティントではタイヤの劣化が非常に大きかった。最初の数ラップはいいのだが、すぐに厳しくなっていったのだ。
みんな同じようにスティントの後半にピークが来るようにしていたと思うけど、僕達も同じようにトライしていたができることは限られていた。できることはタイヤの空気圧とフロントウィング、リアウィングの調整だけ。
新しいタイヤを付けると大事なことはどのようにそのタイヤを使うかだった。そしてピークを自分の想定どおりにもってくる、これが大事だった。
スコット(ディクソン選手)をオーバーテイクしたときには、自分はタイヤをセーブしていた。もっと速く走ることも可能だったが、セーブして走っていたことが鍵になった。
最後のスティントではもちろんイエローが出ることは知らなかったので、ディクソン選手がオーバーテイクして来ると思っていた。だが、彼と争っても、ホワイトフラッグまで彼を抑えておけると自信があった。というのも燃料には余裕があり、燃費の数字には何の問題もなかったからだ。そのため、ミクスチャーをできるだけ最大のパワーがでる設定にしてタイヤに関してもとてもいい状態だった。
──その昔F1でモナコGPを走っているころ、2度もインディ500のウィナーになると想像したことがあったか?
佐藤琢磨選手:そんなこと考えたことありませんでしたよ。今日みたいな状況になるなんて夢にも思っていなかった。ただ40歳を超えて、まだ走っている、そのことは夢の中の話のようだ。多くの人は2012年が自分のピークだと言ったが……さて、将来何が起こるかそれは見てないと分からない。
僕達は人生において2度目のチャンスを得ることがある。それはとてもチャレンジングだが、常にドアは開いていて、突然チャンスが巡って来る。でもそのときには、それを勝ち取らないといけない。それが僕の人生訓だ。ただ、正直に言えばこんなに長くキャリアを続けられるとは思っていなかった。
その意味では自分は本当に幸運だった。自分はレース一家に生まれたわけでもないし、レースキャリアをスタートしたのも20歳になってからだ。それまでは自転車競技に出ていて、それが僕が唯一運転したレースカーだった。
その時点ではF1に行けるなんて思ってなかったけど、運がよかったことにホンダのレーシングスクールに入ることができて、そこでスカラシップを得た。そしてその後英国F3へ進み、(そこでチャンピオンを獲ったことが)F1へとつながった。非常に強力なチームにも入れて、F1ではとてもいい想い出がたくさんある。
そしてその後、米国へ渡ってインディカーへ参戦するよい機会を得て、すでに10年と、F1で走っていたよりも長くここで走っている。すべてはファン、スポンサー、そしてチームが素晴らしい機会を与えてくれたからだ。
ご質問にお答えすると、答えはノー。インディ500に勝つ、それも2回もなんて想像するなんてことはあり得なかった。
──今回無観客のレースになったことはドライビングに影響を与えたか?
佐藤琢磨選手:ファンなしの無観客レースに関しては悲しいとしか言いようがない。だが、少なくともレースはできている。ファンがいるか、いないかということは競争には影響を与えない。ドライバーにしろ、チームにしろ勝つことしか考えていない。それが僕達がここにいる理由だからだ。
このサーキットのスタッフは本当に素晴らしい仕事をしており、長期間チケットを買い続けているファンにプレゼントを贈ったりしている。彼らにとっては泣き叫びたいほどうれしかったのではないだろうか。実際僕達が目抜き通りを走ると、多くのファンが応援してくれていた。まるでインディアナポリスのダウンタウンをパレードしているようだった。ファンがそうして僕達をサポートしていることにびっくりした。
あるファンは1964年からここに住んでいるのだという。なんでもスピードウェイの住所を得ることが希望だったからだそうだ。そうしたファンと僕たちは支え合っている。彼は明日、つまり今日だけど、庭に椅子を出してTVを見ると言っていた。音だけはインディアナポリスモータースピードウェイから直接聞こえるから、と。彼は本当に幸せそうだったよ。
もちろん彼はここに来たかったと思うけど、彼は幸せだと言っていた。そういうことを伺うのは本当に素晴らしいことだ。だから物理的にはファンはいないけど、彼らの気持ちはここ(スピードウェイ)にある。だからすべてのドライバーは100%本気で走っていると信じている。
──NBC(米国のTV放送局)はミルクメッセージのボトルでとてもいい仕事をした。アナタのものがどんなのかシェアしてもらえるか?
佐藤琢磨選手:そのとおりだ、とても素晴らしいことだ。僕は彼らの生活が厳しいお子さんたちのためにレースしている。10年前の日本の大震災では、最悪のケースでは彼らの両親ともに失っている子供もいた、本当に辛く悲劇的なことだ。そして今はCOVID-19により辛い状況になっている。
しかし、子供たちには夢を見る権利がある。それを悲しい理由で奪ってはならない。僕は小さなことから始めたいと思っている。自分にできることはここを全開で走り、子供たちに情熱を分け与えてあげることだ。それは自分が10歳のときに鈴鹿サーキットでF1を見たときに、同じようにF1から情熱を分け与えてもらったからだ。
本当に辛い状況にある子供たちが僕たちのシリーズから情熱を感じてもらうこと、それが僕の夢であり、子供たちのためにレースをするという意味だ。
──RLLRに再加入するときに、2012年に成し得なかったフィニッシュを成し遂げたいと語っていた。そして今ボビー(レイホール氏)、マイク・ラニガン氏、デビッド・レターマン氏にインディ500優勝をプレゼントした。なぜそれが重要だったのか?
佐藤琢磨選手:まさにそのミッションを今日成し遂げた。自分の個人的な野望は2017年にマイケルとともに成し遂げた。しかし、2012年に成し遂げられなかったことが、心のどこかに引っかかっていた。自分が勝つまでに本当いろいろな理由があり、それを一言で説明するのは難しい。
だが、ただボビーとマイクと一緒にやりたかったのだ。マイクやデビットは何度も自分を助けてくれた。だから彼らの何かをお返ししたかったので。だが、自分は彼らを失望させてしまった。
その状況を変えたかったのだ。それには実に8年もかかってしまった。今年まで自分が走っていられるなんて信じられない。本当に感謝したいのはチームオーナーたちが30号車に非常に力を入れてくれたことだ。もちろん彼らはグラハム(グラハム・レイホール選手、佐藤選手のチームメイト)にも勝ってほしかったと思うが、今日チームはグラハムと1-3を達成したことも嬉しかった。もちろんグラハムには申し訳ないけど、その成し遂げられなかったミッションをコンプリートすることがこの8年本当にやりかかったことなので、本当に最高の気持ちだ。
──40歳を超えてからベストなレーシングキャリアがスタートしたかのようだ。
佐藤琢磨選手:本当にそうだが、なぜそうなのかは自分でも分からない。エリオも、トニー(トニー・カナーン選手)もまだ参戦している。このスポーツはスポーツではあるが、オリンピックのように20代、30代が「プレミアムエイジ」ではない。年齢に関係なくまだクルマを速く走らせることができるならそれをやらない理由があるだろうか? 自分のボス(ボビー・レイホール氏)は50代になってもレースに参戦していたし、それはマリオ(マリオ・アンドレッティ氏)も同様だ。自分にとって43歳という数字はただ数字でしかない。